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□馬の魔王様!
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第一話




土方が愛した馬は、紫がかった黒く美しい鬣をしていた。
青毛の五歳、競走馬としてはピークをやや過ぎた頃合いだろうか。


GTで幾度も優勝し名馬と呼ばれたその馬の名は、「チュウニマオウ号」という。


土方がチュウニマオウ号――――シンスケと出会ったのは、その三年前、当時在籍していたゼミの教授に連れられて入った天皇賞のレースであった。
初めて競馬なるものに触れる土方にとっては、人のごった返した競馬場はやかましいばかりで全く落ち着かなかった。はるか高い階段状の席から競馬場の直線を見下ろして、なんとなく小さくなっては競馬新聞を片手に、耳に赤い鉛筆やボールペンをさした男たちの中に混じっていたのだった。

当然、芝だとかダートだとかというコースの違いも分からない。馬の状態を見たって分かるはずがない。
専門用語や隠語が飛び交う中で、なんとなくぼんやりとパドックを歩く馬を見下ろしていた時だった。
その一頭の黒い馬を見つけたのは。
その馬は、紅いゼッケン――――というのだろうか、そういうものの名前すら、当時土方は知らなかった――――をつけて、首をやや擡げるようにして周囲を睥睨しているようだった。知識のない土方にも、その馬が酷く興奮していることが分かった。
黒い被毛の、美しい艶の馬だった。
体つきは、前後を歩く馬と比べてそんなに大きくはない。今から思えば、はっきりと小さい方だと言えるだろう。
だがそんなことは気にもならないほど、首をゆっくりと左右にふり、時に持ち上げ周囲を見回したその馬は、大きく見えた。
興奮しているくせに、その馬はどこまでも冷静だった。
興奮――――というよりも、土方はその時馬の発する力強さに、ただ気圧されていたのかもしれない。

「あの馬か?ありゃあいいぞ、状態もいいし汗もかいてねえな。体重もそう変わってねぇ。興奮してるように見えるが、そりゃいつものことだ。あいつにしときゃ間違いはねえが、ただ俺ァああいう分かり切った奴は面白くねえな」

そう、学生を連れ込んだ不良教授は、火のついていない葉巻を口端に咥えながら肩をすくめた。
その白い物の混じった髪の生え際、耳には他の客同様に赤いボールペンが挟まっていた。

結局土方は、その馬の馬券を一枚だけ買った。
今に至るまで、その馬券は土方の記念品として、宝物になっている。


レースはただ圧巻の一言だった。
一斉に飛び出した馬がたちまちのうちに団子状になり、それが先頭集団を作り、そのうちに長く伸びていく。
あんなに密集しているのに、急なカーブでよくぶつからないものだと素人目にはいちいち全てが不思議に思えた。
わっと沸き立つ周囲に埋もれて、土方はただ、あの馬を探した。チュウニマオウ号――――確かそんな名前だったかと思う。
やや小さい馬の体は、団子の中に埋もれてしまっているのか、遠目では中々動き回る馬の群れの中に見つけるのは難しい。しかしこの時点で、先頭集団に見えていないのでは、松平教授の言ったような馬ではなかったのではないか――――そう、思ったときだった。

先頭集団を外側からかわして、突如抜け出した馬がいた。

黒い、細く引き締まった体である。それは弾丸のように塊の中から抜け出すと、見る間に速度を上げていく――――
スピーカーから流れる実況が、あの馬の名を呼ぶ。
「チュウニマオウ、チュウニマオウ」と絶叫のように名が一つ重ねられるたびに周囲の興奮はいや増した。
だが土方はただ言葉を忘れ、音を失ったかのように、眼下を駆け抜けていく黒い馬を見つめていた。
流星のように黒い筋を残して、その馬が駆ける。
騎手はそれに振り落とされまいと必死になっているように見えた。だがその馬は暴走しているわけではないのだ。
ただ真っ直ぐ、ひたすらに真っ直ぐ、黒い光芒をひいて、羽ばたくように駆け抜けていく――――

レースが終わったことを、土方は傍らの教授に肩をたたかれて知った。
最後のカーブを曲がった直線で突如飛び出したその馬は、後続の馬を五馬身以上も引き離して駆け抜けていった。
その残像が、網膜に焼きついたようで、時の流れすら土方は失っていたのである。

結局そのレースが土方の人生を変えた。
その翌日には土方は、チュウニマオウ号ことシンスケの厩舎で、その世話係を務めることになっていたのだった。
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