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□馬の魔王様!
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第二話


何故、ただの学生でしかない土方が競馬の頂点・GIレースで常に上位に食い込む期待の名馬・チュウニマオウ号の飼育係――――雑用といって差支えない程度だが――――になれたのか。

それを説明するには、チュウニマオウ号の性質に、軽く触れておかねばなるまい。

彼――――と、チュウニマオウ号の所属するマダオ厩舎のスタッフは呼ぶ――――の生まれは西方、山口県の萩市近辺にある高杉牧場であった。
そこでは郷土の偉人に因んでセリに出される前の仔馬には愛称をつけている。
チュウニマオウ号と馬名を与えられる前は、彼はシンスケと呼ばれていたし、大抵のスタッフもそう呼んでいた。どうやらシンスケは、チュウニマオウ号という名前が気に入っていなかったらしい。

チュウニマオウ号ことシンスケは、非常に気性の荒い馬だった。
彼の世話をするスタッフは何人も変わった。シンスケは人見知りが激しく――――萎縮したり目を合わせない程度なら可愛いものだが、それが攻撃性として出てくる困った馬だった。
ある者は迂闊に背後に回ってその蹄に蹴り飛ばされ、ある者は飼い葉を給餌していたら髪を毟られたりした。
それでスタッフが次々に辞めてしまうものだから、常にシンスケの飼育スタッフをマダオ厩舎は募集しなければならなかったのである。

「あー、学生さん?学生さんのアルバイトには一寸キツイよー。そんなにバイト代高くないし、臭いもキツいし、拘束時間長いし。コンビニとか家庭教師のバイトとかやってたほうがまだいいんじゃないかなあ」

面接に現れた土方を見て、長谷川――――マダオ厩舎の責任者はそう言った。
サングラスに半纏、チノパンという如何にも胡散臭そうな人物だが、この男はこう見えて、数々の名馬を手掛けてきた名伯楽――――と呼ばれているらしい。しょぼくれた中年オヤジといった恰好は、全くそうは見えなかったけれど。
この厩舎を会社に例えるなら、直接馬主から馬を預かり調教する調教師である長谷川が社長ということになる。のっけからの言葉に土方は首を竦めて、だが引き下がらなかった。
あまりにも土方は思い詰めた顔をしていたのだろう。
長谷川はひとつ大きな息を吐くと、一遍顔あわせしてからね、と言って土方を厩舎の中に入れてくれた。
先に採用・不採用を決めてしまわないのは、シンスケの人見知りが激しすぎて、採用と決めたスタッフを容赦なく蹴りだしてしまうからだろう。

少し古い厩舎は、動物の匂いがした。
こういう場所にはあまり来たことがないからか、馬を近くで見たことのない土方には、それがなんとなくひとかたまりになって「動物のにおい」としか認識できない。
雑然とした厩舎の、その奥の馬房にチュウニマオウ号はいた。
パドックで見たときは他の馬がいたからか、やや小柄に見えていた体は、だが近くで見ると土方よりも随分体高は高い。
黒々とした鬣、その膚は漏れいる明かりをはじいて一種艶めかしいほど輝いていた。
シンスケは、近づいてくる長谷川の足音に気づいたか、耳を立てると頸を持ち上げてこちらを振り向いた。そうして、長谷川の後からついてくる土方を見ると、僅か目を眇めたようだった。
それがパドックで周囲を睥睨していた様子と重なり、土方は胃の腑が縮まるような震えと共に――――何故かじわりと胸腔の内で興奮と一種の感動が巡るのを感じた。

あの馬の前に、自分は今立っている。
そういう種の、感慨であっただろう。

馬房に入った馬は轡もつけていない。
長谷川は調教師だというのに、どこか腰が引けたような手つきでその黒い頸を軽く叩くと、土方を振り返った。

「この子、すごく気が強くてさあ。好き嫌いが激しすぎて、気に食わないスタッフは蹴りだしちゃうんだよね。まだ骨折るところまで行った人はいないけど、この大きさでしょ、一回やられると怖くなっちまうのか、辞めちまうんだよね。だから採用は、シンスケ優先」

競走馬の重さは、小さいものから大きいものまでさまざまだが、大体四百キロ近くは小さくてもあるだろう。大きいものでは0.5トンよりも重くなる。それに蹴り飛ばされたり押し潰されそうになるのだ、やられれば恐ろしいだろう。
そうでなくてもこの馬は気に食わないスタッフの髪を毟ってしまうことも多いらしい。
悲惨だよーと言う長谷川の腰が引けているのは、そのせいだろう。

長谷川が一歩下がるのに従って、土方は一歩踏み出した。
黒い睛が、自分をじっと見ている。
大きな、澄んだ睛をしていた。値踏みをするような目だった。
歯を剥かれてはいないが、好奇心を持っているというには、その様子は泰然としすぎていた。
謁見にきた下々のものを睥睨するようにどっしりと構えている、ような。

その前に、土方は歩み寄ると――――深く、頭を下げている。

長谷川が息を飲む音が聞こえる。
土方は、息を止め全身を固くして、その洗礼を進んで待った。
どうせスタッフとしてアルバイトをすることになっても、毟られるのだろう。ならば今毟られたって同じことだ。
採用されなかったら、それはそれで無駄な行為になるにしても、それだけの覚悟はとうに決めていた。

だが、いつまでたってもその痛みと衝撃は訪れなかった。

代わりに――――

「…?」

直ぐ近くの湿った吐息の気配に顔を上げるより先に、土方は顔の横に伸ばされ摺り寄せられる肌の感覚に、目を見開いている。
はじかれるように顔を上げれば、その動作についてくる膚は、真黒い青毛の、シンスケの頸に相違なかった。
膚に触れれば、わずか固い弾力を持つ膚は、膚、というより革、というほどに逞しい。
だが固くもその肌には血が巡り――――酷く、暖かかった。

頸を摺り寄せられているのだ、と土方はようやく気が付いた。
先刻まで自分を睥睨していた黒い睛は、酷く今は優しげに、土方を真っ直ぐ、同じ高さから見つめていた。

「…こりゃあ、驚いた…」

ややあってから、茫然とした調子で長谷川が呟く。
シンスケが、新しいスタッフに対してそんな親しげな様子を見せるのは、初めてだったのである。



そういうわけで、土方のマダオ厩舎への採用はすぐに決まった。
そしてそのアルバイトは、そのうちに就職へと変わってしまうのである。
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