隠れ家

□馨
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足が擦り切れるかと思うほど歩きに歩いて、ようやく高杉は見慣れた喧騒の切れ端を捉えて吐息をついた。
たった十日程だというのに、ガラリと雰囲気が変わってしまっているのが情けないのと同時におかしくさえある。
この精神の余裕がどこから生まれたのだろう。泣き叫び狂乱の只中にあってもいいはずなのに、それでもまだこの世にとどまっていられる。
鼻腔をふと、甘やかな馨がくすぐっていったような気がした。
袖に鼻先を押し当ててみたけれど、錯覚のようにその馨は二度とたなびいたりはしなかったが。


やっとのことで探し当てた味方の陣は、高杉の帰参と共に驚きに包まれた。
死んだとばかり思っていた男が、生きて戻ってきたのである。鬼兵隊の壊滅は既に市井でも知られるところになっていて、あまりの戦場の惨状に総督も死んだとばかり思われていたものだから驚かない人間はいなかった。
だがひと時にその話題の中心へと押し上げられた高杉は、周囲の動揺を全く意に介することも無く、さっさと宛がわれた部屋へと引っ込んでしまった。
鬼兵隊の壊滅は、攘夷戦争の新たな展開を嫌でも志士たちの目に焼き付けた、らしい。今までどっちつかずだった幕府が兵を出し残党狩りをして処刑まで行ったのだ。攘夷を志す義勇軍諸隊は全て一夜明ければ賊軍になっていた。おかげで既に、軍から次々と脱落者が出ているらしい。元から先の見えない負け戦に疲弊していた人間は多かったのだ。仕方あるまい、と高杉はあっさりと納得した。そうでなくとも少数の人員で戦ってきたのだ。状況は悪化の一途を辿っている。
軍を抜けようかと迷っている人間に対して、自分の生還は必ずしも良い方向へと働くまいと高杉は襖一枚を隔てた喧騒にぼんやりと夢想する。
この期に及んで天人と幕府の大軍を相手に戦い抜こうと考える人間はほんの一握りだ。揺らぐ人間を戦力としては信用は出来ない。一度この形骸化した組織は解体されて、編成されなおしたほうがいいのではないといやに冷静に高杉は考えた。今の軍は、小回りはきくが打撃力に掛ける。違うファクターがそろそろ必要になるときであろう。
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