隠れ家

□飛んで火にいる夏の虫
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水が喫水線に押し寄せて、小さな音を立てている。
船縁である。
もう少しすれば湿気が耐え難い気候になるが、まだ今はさほど熱くはない。じっとりと肌に沁むような湿気より、川からのぼる水の気配がわずかに勝っているらしい。氷桶があれば、もう少しましになるだろう。体感温度はともかく、気分は多少涼しくなる、はずだ。
しかし高杉の頭の中は、苛立ちで摩擦され今にも擦り切れそうになっている。
出された膳に伊東は黙々と手をつけているというのに、高杉の膳にはほとんど箸が付けられていない。
顔に似合わず、(鬼兵隊の人間なら誰でも知っているのだが)高杉は愛妻家だった。
否、結婚はしていないのだから、恋人にベタ惚れ、というところだろうか。結婚は高杉の野望が成った暁に大々的に行うつもりであるということは、まだ高杉だけの秘密である。
とにかく高杉には、恋に狂うほど大事な恋人がいて、その恋人の作る夕食を一緒に食べるということにしているので、夜は外ではほとんど食事はしないことにしているのである。腹は減っているが、もし腹に何か入れてしまって、恋人の食事が食べられないということになったらと思うと高杉は想像だけで耐え難い苦痛に煩悶する羽目になる。
それほど大事にしている相手なのだ。
だから高杉は、伊東の話などはほとんど聞いてはいなかった。
もう遅い時間だ。早く帰りたい。
土方は、高杉の大事な大事な恋人はもう帰宅して、自分をあの小さな家で待っているかもしれないのに。
出掛けに今日は遅くなると言っていた高杉であったが、土方はとても律儀な性質で、高杉がそうは言っても帰ってこられそうな時はそのまま待っているのだ。
早く帰ってキスをして、一緒に食事をしてそのまま戯れたい。
そんな想像が空腹感と一緒にぐるぐる頭の中を廻って、高杉を次第に苛立たせる。
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