#8.Fallen!








西原が、おかしい。


・・・いや、おかしいほど仕事に没頭してるのはここ最近ずっとのことなんだけど。


何かな、輪をかけておかしい、というか、まずいことになっているように見える。










季節は5月。


あのバレンタインから時は飛ぶように過ぎ、特にびっくりするような人事異動もなく私のオフィスライフは至って安穏安穏。


・・・な、わけがなかった。


「若奈さん若奈さん!ちょっとこれ見てくださいよー先週のスナップ!これ定本さんですよね!?」


佑香ちゃんが頬を活発な薄紅色に染めて、ぱたぱたと可愛らしい足音でやってくる。


手には、「大人メンズ×最旬春コーデ」と表紙に題されたメンズファッション誌。


「定本さん・・・?」


隣のデスクは、お菓子をほっぽらかしたまま空席だ。まぁいつものことだけど。


ほらここ、と可愛らしいオフホワイトのネイルが指差すのは、ブラウンのストレートパンツに浅黄色のコットンシャツを着る定本要。


黙っていれば格好いいのに――いや雑誌にだって音声は付いてきやしないんだけど、馬鹿そうな微笑みを浮かべて長い指を腰のあたりでピースさせている。


名前と年齢の後に書かれている説明文を読むと、【一見ラフなスタイルだけど、上品なシルエットと春らしい色使いはお見事!嫌味のない着こなしは男女共にウケそう。お仕事はなんとあの「オクガワ」に勤務だなんて、これぞまさに理想的スーツ男子像?】――なんという詐欺。


理想的スーツ男子様とやらが毎日大あくびしながら隣で気休め程度にパソコン叩いてますよ、ええ。


「喋ってないから格好いいですよねー。しかもこのシャツ、彼氏が欲しがってたんですけど高くて手届かなかったんですよ?リッチマンぶりも憎いですよねぇ」

「んーそうだねぇ・・・」


答える私は、雑誌のスナップのある一部に目を奪われ、慌ててその本人が外出中であることを確認し安堵する。


ちょっと。何これ?


それは、定本さんがピースサインをして微笑むその50メートルほど後方。


心底不機嫌そうな顔で地面を睨みつける、これまた整った容姿の男がダージリン色の瞳を光らせている。


あまり細すぎないベージュのストレートパンツにさらりと一枚、薄いブルーのコットンシャツを着るその長身――西原久志だ。


ちょ、何してんの西原。


まず間違いなく二人セットで声を掛けられただろうに、全力で撮影拒否の姿勢を50メートル後方で貫く西原に、思わず吹き出した。


写るのか写らないのか、はっきりしない人だな。


「若奈さん?」

「ん?・・・いやいや」


佑香ちゃんは気がつかなかったみたいだけど。



と、次の瞬間私と佑香ちゃんが持っていた雑誌がバッと取り上げられる。


「きゃ・・・」

「佑香ちゃんだめでしょー、若奈さんにこんなつまんない男見せちゃってさ。若奈さんには僕がいるからいいんだよ?ね、若奈さん」


”こんなつまんない男”、ね。


さて、この男は気付いているのか。


現れた男は、ジャニーズ系って言えばいいんだろうか・・・いやジャニーズを悪く言うつもりはないんだけど、何て言うんだろう。ウィッグ被れば女の子、みたいな顔と声。


まるでホストのような甘いマスクのこの男に社の女性陣は大喜びだけど、軟派な言動も相まって私は正直好きになれない風貌だったり。


「若奈さん?何可愛い顔してーんの」


す、と肩に回された腕にげんなりすると共に、デスクの上のぴかまぐの視線が痛くて更に肩が重くなった。


彼の名前は奥河暖。


お名前が物語るように、オクガワの社長ご子息であられる新入社員で、この春うちの部署に配属されてきた。


仕事は早いし気も利くし、申し分ないといえばそうなんだけど、ただ困ったことに執拗に私に構ってくる。


それこそもはや、24時間365日年中無休の勢いだ。


そして更に困ったことに――こいつのせいで、私はある一つのタイミングを一切失ってしまっていた。


それは、西原との関係修復。


バレンタインのキス以来、年度末で西原が忙しかったのもあるけど、事務連絡を除いてまともに話すらできていない。


呆れたタコ野郎だと西原を罵る定本さんの隣で、私はもう一つの隣のデスクをまともに見遣ることもできなくて。


ぴかまぐの出番も途絶えたまま、やがてすぐに入ってきた奥河暖が、私に引っ付いている。


さぁ困った。バレンタインのお返しのお礼さえ言えないままだ――社内で西原にお返しを貰っている女性はまずいないからオフィス内で言うこともできず、かといって奥河の目を盗んで二人きりになるには、私はあまりに臆病者。


そんなこんなで、バレンタインから早くも3ヶ月近くも経っていた。


「おはー若ちゃん。佑香ちんもおはー。見てこれ今食堂のおばちゃんに貰ってきちゃったー」


そのとき、へらり、笑って現れたのは膨大な量のお菓子を抱えた定本さん。


や、おはーなんていう時間じゃないんですけど。


「薫連れてったらこんなんも貰っちゃったよ。ほら」


ハートのペコちゃん。


いつのまにやらヨリを戻したらしい。


・・・いや本当に嬉しそうだけど定本さんあなた、ここに何しに来てんだ。


仮にも社長ご子息を目の前に。


「あっれー暖くん。何してんの?」


言って、今気付いたとでもいわんばかりに、定本さんは私の肩に腕を回したままの奥河を見る。


何してんのはお前だろ、というのは今は言わない――明らかに、定本さんの出現が奥河をイラつかせているのが肩に回された腕の重さから分かるから。


すると、奥河は完璧な笑顔を浮かべて言う。


「ナンパですよ」


・・・。


頼むから職務を思い出せオクガワ社員。


と、救世主のようにドアの先から聞こえてくるのは革靴の音。


・・・こんな足を靴の底を引きずるような歩き方は西原じゃない。誰?


ふと考えたときだった。


「・・・悪い、定本。今日接待入ったから夕方から俺直帰にしておいて。――あと、奥河。昼休憩終わったらでいいから、倉庫から昨日言った資料とサンプル持ってきてくれると助かる」


現れたのは、ダージリン色の髪を揺らしながら指示を出す西原。


「接待?あぁ、山室さんとこの。了解です」

「部長。サンプルってAもBも全部ですか?」

「あぁ。台車がエレベーターの横の用具庫にあるから、それ使って。何回かに分けてもいいから。悪いな」


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