キリリク作品 4/15

□『5分32秒』
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<<5分32秒>>


渋谷ハチ公前の人だかりは他の待ち合わせ場所に比べ、平均年齢が実に低い。
漸く男として大人と呼べる経験を積んだ年齢、30代半ばの俺は
犬の銅像の前に堂々と立っていられるほど若人でもなく、人目を気にしない年寄りでもない。
スクランブル交差点に近い駅出口の壁に腰を預け、人の流れと車のライトをぼんやりと眺めていた。


『今夜は何処に行こうか?』
『そうだねぇ…。春物のパンプスも見たいし、こないだノアのお家で見たDVDの続編
今丁度、映画館でやっているみたいだし…、あ!それにJの個展もやってるんだった。
どれにしよう…かなぁ。』
『どれでも良いが待ち合わせまでに決めておくように。こないだのようにどれにするか迷って
コーヒーを3杯も飲みたくないからな。』
『うん、決めて…おくね。』
『じゃ、8時に。』

メールで遣り取りするよりも、電波越しの会話の方が君を身近に感じられる。
透き通った長い指先で下唇を弄びながら、首を様々な角度に曲げている様子を思い浮かべて
携帯のボタンを軽く押した。


昼に約束した8時まで後5分32秒。
忙(せわ)しく流れていた車のライトが一斉に赤くなる。
それらに替わって人の波が道路上のストライプを埋め尽くす。
そしてその人ごみで、必ずロングの黒髪を捜してしまう癖は彼女と一緒に居る時以外
何時、何処ででもやってしまう事に最近気が付いたのだ。

眼が捕らえたのはやはり豊かな黒髪の女性であったが、俺の想い人に反して身長が低く
加えて隣にはジーンズを腿の付け根で履いている男を伴っている。
女性の右手は男の腰に回され、男の左腕は女性の肩をスッポリ抱いているのが分かると
また違う女性が眼に入った。

夜風に靡く、細くて艶のある長い黒髪。
ばらついたそれらを象牙のように白く細長い指先で掬い上げて、その瞬間に広がる甘い香り。
心を擽るその香りは遠くからでも感じられるようだ。
夜のネオンを見事に反射する蒼黒の瞳は視線が定まらず、ぼんやりと先の先を見つめ
俺をまだ認めていない。

───アズサ。

声を出そうと腰に預けていた重力を、足に移したその刹那。

彼女の右頬が正面に見え、紅い唇が俺ではない『他の誰か』に言葉を紡いでいた。
緩やかな曲線を描く髪とそれに続く金糸の髭。
横で彼女の言葉を受け止めていたのは身長、体重、肉付きなど外見は殆ど俺と変わらない
同じ血が流れる青い瞳の男、『バッシュ』に間違いなかった。
思わず身を強張らせ、一瞬の内に唇が乾いてしまう。

二人は俺に気付くでもなく、楽しげに会話を進めて歩いている。

何故二人で居るのだ?アズサ?
その楽しそうな表情は俺に見せる物と変わりが無い。
君は俺の知らない場所でいつもそんな風に笑って、男の視線の後にその心までも掠(かす)め取ってしまうのか?
異心同形の兄までも…。

「ノアーーーーっ!!」

視界で手を振る女性がアズサだと分かっていても、心の視野は異なる情景を眺めていた。

「やぁ、ノア。お疲れ。お前のお姫様は優柔不断で、買い物には不向きなようだな。」
「んもぉっ!バッシュ!優柔不断じゃなくて、女なら誰でも迷うところなのっ!」
「ふふっ、そうとも言うがね。では、私はこれで失礼するよ。楽しい週末を…。」

バッシュの背中が駅の人波に消えていくと、壁に宛がっていた腰にじんわりと痺れが走る。

「どうしたの?ノア。具合…、悪い?」

腰を折っている所為で眼の高さが俺の方が少し低く、君の顔を見上げるような形になった。

「いや…。」

髪をかき上げた無意識な手を取り、強く握り締める。
それは冷たくて優しくて、か弱く脆い。

───アズサ、君は…。

先程、鼻先を掠めもしなかった甘い君の香りが、俺の周りに漂い続ける。

「バッシュがね、パンプス選んでくれたの。最後の3足でずっと悩んでいたんだけど、
『ノアならこれを選ぶだろうね。』の一言で迷わず空色のこれに決めましたっ。じゃーん!」

差し出された右足には空色の光沢が汚れ一つなく輝いている。
君の眼差しはそれと同類。

「どぉ?どぉ?似合うかな??早くノアに見せたくて履いてきちゃったの。」

───俺に?

「ノアが気に入ってくれなきゃ、バッシュに買い取って貰うんだからっ。」
「…。」

預けていた重力を両足に戻し、長身だから高いヒールはあまり履きたくないと
日頃言っているアズサの目線は俺のそれより下になった。
今度は逆に彼女が俺の顔を覗き込む。

「似合わない…、かなぁ?」

急に萎んだ俺だけの笑顔。

「!?」

繋がっていた手を引き込んで、両腕で君を占領する。
哀しく漂っていた甘い香りが深まり、安堵が混じった喜びが心を震わせ
それでも消せない不安は君に取り除いて貰おう。

───アズサ…、俺だけを…、君は見つめているな?

「…95点。」

頬を擽る君の髪。
赤味を帯びた耳に吹き付けるように囁いた。

「まっ、マイナス5点は…どうして?」

蒼黒の輝きは挑戦的に俺を捕まえる。


───兄さんが選んだから。

「…教えない。良く考えたら分かる筈だ。」


「分からないから聞いてるのにぃ。…んもぉ。」
「ふっ、それより行く場所は決めたのか?」
「うん、決めたよ。今日は私のマンションでさっき買ったDVDの鑑賞会に決定!」

綺麗に並んだ白い歯が笑顔の真ん中で輝いて見える。
君を確かめる為にもう一度きつく抱き締めてから、祈るような気持ちで呟いた。


───アズサ…。


「さぁ、帰ろうか。で、夕食のメニューは決まっているのか?」
「あ、…えーっとぉ。」
「ふふふっ。」

君の優柔不断にはいつも振り回されてしまうが
それでも俺を選んで、俺を求めてくれる理由は、俺だけに向けられる愛故なのだと君を信じよう。

君の瞳は光。
君の言葉は道。
君の想いは俺だけに…。


「アズサ、もし俺とバッシュが一緒に居て、違う物を選んだら君は如何していた?」
「パンプスの話?」
「あぁ。」
「…教えないっ、考えなくても分かる筈でしょ?」

柔らかな微笑が交じり合うと、そっと君の腰に腕を回す。

「…そうだな。」

駅に向かう遥か背中の方角から、8時を知らせる時報が微かに届いた。



<<FIN>>



ノアの5分32秒間の心の揺れを短編にしてみました。
語り手がノアなので少し、硬いかもしれません。

一万キリリク、アズサ様、誠に有り難う御座いました。
これからもどうぞ宜しく!

2009.4.15 重光
 

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