オルフェウスの歌






 風の音が聞こえない。浮上する意識の中、しん、と館ごと包む静けさに目が覚めた。昨夜の饗宴が嘘みたいだと働かない頭の中で考えた。幕の引いた後の舞台みたいな静けさ。でも、祭りの後を見るときに決まって訪れるぽっかりとした空虚感はなかった。その代わりに、人肌の暖かさと、呼吸がかかるほどの近さで自分の肩口に顔をうずめるように眠る幼馴染の姿があった。
叫ばなかったから理由は寝起きだったことと、昨日の酒が抜けてなかっただけであって、叫べるものなら叫びたかった。実際、ぎょっとして飛び起きた孫策は叫ぼうとしてぐらりと天地が逆になったので、うっと、口を押さえた。
えっと、何だ。何でこんなことになってるんだ。
思い出そうとして、記憶がひどく曖昧なことに腹立たしくなった。俺のばか。黄蓋公の腹踊りとかそんなどうでもいいこと覚えてたってしょうがないだろう。いや確かにあれは面白かった。密かに練習してただけあった。さすが我が軍のセクシー担当。いや、今は彼の努力と魅力について考えてる場合じゃねえし。昨日。昨日のことだ。何があった?何をした?
錯綜する記憶の海の中で、おぼろげながらこっそりと宴会を抜け出そうとしたような映像が浮かんできた。若、若、とかけられる声が収まった瞬間、ほんの隙間みたいな時間を、するりと抜けだすように、声をかけた。かける前に彼は振り返って笑っていた。もう行こうって顔をしていた。抜け出そうって顔をしていた。いつもそう。言葉にする前に、こいつはいつだって俺の思考の先を読んでくれる。
『桜が見たい』
 よほどのわがままでない限り自分の望み通り従ってくれる。この申し出は彼の気に障ることなくすんなり受け入れてくれた。二人でこっそり酒瓶をくすねて、街を行くひどく仲のよい少女達みたいに声を潜めてじゃれあいながら廊下を歩いた。何を話したのか覚えてない。でも、ふわふわとした心地よさでいっぱいだったのだけは覚えている。
西方の商人が用意したその酒は、大人には甘すぎると不評であったが、正直精一杯背伸びして酒を飲んでいた自分の口にはとても飲みやすかった。顔に出てしまっていたのだろうか、親友は何も言わずに自分が今日ずっと飲んでいたそれをいつの間にか手にして悪戯っぽく笑っていた。蝋燭で照らされた笑顔はきれいだなと思うと同時に、少しどきりとも、ぞくりともした。
 案外鮮明に思い出せることに驚きつつ、同時にかあっと頬が熱くなった。ああやだ、見惚れるなんてどうかしてる。一体何年間一緒に過ごしてきたんだか。
 思い出して恥ずかしくなって頭を抱えていたせいで、身じろぎをしたことに気付くのが一瞬遅かった。何もなかったように寝台から出てしまえばよかったのだ。風呂にでも行けばよかった。いくら温和な周瑜公瑾でもこの状況はさすがにおかしいと思うだろうし、気まずくなるに違いない。戦なら大丈夫なのに、こういう時の反応はどうして一歩遅れてしまうんだろう。
うっすらと開いた切れ長の目とぱちりと合ってしまった瞬間だった。
「うおっ」
突き飛ばされるかと覚悟したが、次の行動は想像と正反対だったので、逆に戸惑った。
「…寒い」
起き上がっていた上半身ごと、ぐらりと寝台に引き戻されてしまい、どうしていいのかわからなかった。もう起き上がれないように腕を伸ばし、頭を抱きかかえるように引き寄せられた。足と足の間に滑り込んできた相手の足の感触に、くすぐったくなってちょっと笑う。
「寒いよ」
「やだ、やめろって」
責める口調でくすくす笑う。
「寒い、我慢して」
「やだよ、起きよう」
「いやだ」
 雪、降ってるし、と言われた。道理で早朝にもかかわらず明るい訳だ。
「でも俺、風呂、入りてえし」
 あの饗宴のまま外に出たと考えると少し気がめいる。戦のときはさほど気にしないが、家にいるときはちゃんとしなくちゃという意識があった。館を汚すのを母がひどく嫌がったのもある。
『家はきれいにしなくちゃいけません。家が荒れ果てていることは生活が荒れているからです。生活が荒れていては家族が安らげません。家族が安らげないのなら、そこはもう家ではありません』
 だから、きれいにしておかなければと、すぐ汚くなる部屋を片付けながら何度も言われた。そのせいで、長らくあけていても整然とした部屋に、風呂に入らないで横たわっていることに罪悪感を覚えた。
 でも相手はのそりと顔をあげ不思議そうな表情をするだけだった。
「入っただろう?」
「へ?」
「外の、ほら『桜が見たい』って」
 覚えてないのか?と言われすっかり固まってしまった。いやいやいや。確かに、館から少し行ったところにあるそこは、天然の湯が出て、近隣に野桜が並び、花見酒にはもってこいだと昔父親が言っていた。いつか自分もと思っていたからよく覚えているし、その話をしたような気もする。だからか。言われてみれば酔ったまま寝た後の不快感というものは感じられなかった。
「覚えてない」
「そう」
 気恥ずかしくなって顔をそむけた。親友が笑った気配がしてまた恥ずかしかった。ああ一体何をしたんだろう。何を言ってしまったんだろう。こいつはどこまで覚えているんだろう。どうしてこんなに機嫌がいいんだろう。
「…悪ぃ」
「ん?」
「その、色々」
 ぼそぼそと呟くような謝罪の言葉にも、「いつも迷惑ばかりかけているくせに」と強張った自分の体をぎゅっと抱き寄せてまた笑った。朝は機嫌が悪い癖に、今日はどこまでも明るくて、それがまた恐ろしかった。
 外は静かだった。人ひとり分多いおかげで今はそれほどでもないが、恐らく窓の外は寒いのだろう。気まぐれな春の天気らしく、昨日は浮かれるぐらい暖かかったのに、一気に冬に引き戻された。桜は無事だろうかと思った。まだ散ってはいないだろうか。
「いいよ、楽しかったし。嬉しかった」
「たっ」
 楽しかったあ?と大声を叫ぼうとして再びぐらりと頭が回り、口にはできなかった。
 大体どうしてこんな状況なのだろう。先程からしきりに寒い寒いと言うが、それは理由になるのか。男二人同じ寝台で横たわっている言い訳になるのだろうか。
 抱き枕みたいに引っ付かれたまま、自分の鼓動が早くなっているのがばれてしまいそうで恥ずかしくなってきた。おさまれどきどき!と思えば思うほど、脈打つ速さは意志を裏切りやがる。
 お、思い出さなきゃ。どうにかして、思い出さなきゃ。

 あの後、どちらともなく歩き出した先、甘いその酒を口にしながら、父親たちのまねをして湯に浸かった。館の灯が遠くに灯り、闇の中の桜は白く美しかった。やっぱりどうかしてる。お付きもつれてこないなんて、無防備にもほどがある。でも二人とも気にしなかった。二人でいればそれでよかったし、向こうも同じだった。声を潜めて笑い合って、中身のない禅問答のような話をした。
 ひらり、と一枚桜の花びらが酒の水面に舞い降りた。ひどく素直に、贅沢してると思った。黙ったままでいると、窺うような顔をするので、思ったことを素直に答えた。
『桜、酒、温泉。それに公瑾。すごい贅沢だなって』
 しかしこれは彼の気に食わなかったらしい。
『別に、私じゃなくってもよかったんじゃないか?』
 何故彼がそう思うのか、わからなかった。酔っていた。だから普段なら飲み込むような言葉を投げてこられて、少し戸惑った。
『なんで?』
『好きな人だったら誰でもよかったんだろう』
『俺公瑾のこと好きだぜ』
『君は、誰にでも、好きって言うじゃないか』
『でも、俺は、俺のことを好いてくれる人はみんな好き』
『じゃあ、私は嫌い。君のことが嫌い』
 優しさとか理性とかで包み込まれない言葉は、突き刺さるような威力を持つ。『嫌い』の一言は残酷に胸を抉った。泣きそうになった。
『なんで?』
『皆と一緒じゃ嫌だから』
特別になりたい、と言った。特別、とくべつ。さっきまでの悲しさは消えた。俺は笑った。とっくにあらゆる他人を跳ね除けその位置に君臨しているということを、この男は知らない。知らないで子供みたいに拗ねている。笑って答えた。湯でぬれた髪を軽くかきあげて、穏やかな気持ちで答えた。
『お前は?』
 顔を上げて、まっすぐ表情を見たかったのに、何故か緩く綻びた口元までしか見ることが出来なかった。祈るように、ひどく切実に、そして誠実な気持ちで待った。そのくせ、その唇が望む言葉を紡いでくれても、いつものようにバカみたいに笑って、抱き着いたりはしなかった。ただ、出会ったことのないまだ幼い天子のように、にっこりと行儀よく、それでいて威厳をもち、少しばかり偉そうに微笑んで見せた。
『もう一回、言って?』
 酔った頭の中では何も考えられなかった。ただ滅多に聞けない言葉の甘い響きにすっかり虜になっていた。今度は顎を持ち上げられ、真正面から射抜かれて、へなへなと力が抜けてしまった。手から滑り落ちた杯が音を立てて転がる。崩れ落ちそうな体を支えられて、耳元で名前を呼ばれた瞬間ああもうだめだと思った。俺の親友は、先のない恋だとわかっていて、そんなものにおぼれる男ではない。でもそれは冷静な場合であって、二人とも酔っていた。いや、本当に酔っていたのだろうか。公瑾は、酒で記憶を失ったことは一度もないと言っていた。
 断片的な記憶が繋がるにつれて、羞恥で消えちゃいたくなる。聞けばいいのだろうか。お前、どこまで覚えてる?なんて。目覚めた時の状況からすれば一目瞭然だった。介抱して、ここまで運んで、着替えをして、寝かせてくれた人間がこいつじゃなかったら、それこそ悲劇だ。真っ赤に染まった顔を伏せたまま、俺は精一杯の虚勢を張った。
「起きようよ、公瑾」
失った清らかな友情を取り戻すなら、もう二度と振り返ってはいけなかった。
「寒いよ」
「でも」
「でも?」
「桜、散っちゃうかも」
 ふっと、耳元で笑われ、自分で退路を断ってしまったことに気付いた。もう沸騰するんじゃないだろうかというぐらい、顔は赤くなった。負けだ。俺の完全敗北だ。これじゃあまるで全部思い出しました、と言っているようなものではないか。
「じゃあまた見に行こうか」
 雪はしんしんと降り続く。空気の汚れを覆うように降り注ぐその白さで、何もかも隠してくれたらいいのにと、目を閉じて祈る。
 雪の光を浴びて微笑む親友は、自分の知らない人のように思えて、もぞりと顔を埋めてみせた。
***
20110313


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