Till The World Ends



 見上げた空はどこまでも晴れていたのに、西の空は少し薄暗く、風はほのかに雨のにおいがした。あの男に初めて出会った日のことを思い出すといつも胸が苦しくなる。
 まだ両の手で数えられるぐらいの年で、一人で遠乗りに行くことを何度注意されてもやめられなかったころの話。へんなのに追いかけられたら振り切ればよかった。でもこの日はできなかった。だれかの、自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。その声があまりに切なそうで、立ち止まったところを襲われた。後ろから羽交い絞めにされ、どれだけもがいてもびくともしなった。
「離せよ!俺は孫堅文台の子供だぞ!」
「だからだよ、ガキが」
 むかむかが腹の底から湧き上がってくる。偉そうな口ききやがって。たいしたことないくせに、親父に比べたら全然たいしたことないくせに。そんなやつらに捕まってしまったことが悔しかった。情けなかった。
「よく見りゃいい顔してんじゃねーか」
「大人しくしてれば命まではとらねーよ」
「それなりに楽しませてやるぜ」
 男たちはぎゃはは、と下品な笑い声を上げた。むかむかはひどくなるばかりだった。裾に忍ばせた短剣に指先を這わす。ころしてやる。俺をバカにするから。俺が弱くてこどもだからうまくいくと思ってやがる。でもこいつらは何もわかっちゃいない。俺が世界で一番嫌なこと。足手まといになるぐらいならなんだってする。
 でも、と唇をかんだ。首を掴む男の腕は太かった。刀に触れた指に力が入らない。息苦しさに世界は滲む。口を何かでふさがれ、必死で首を振る。しぬ、と思った。
「そこまでだ」
 風が吹きぬけた、と思った瞬間だった。首を絞める力がなくなり、草の上にぺたりと座り込んだ俺は思い切り息を吸い込んだ。すぐそばに、男の腕を捩じりあげる、すらりとした大人の影があった。
 誰?
 見上げた男はびっくりするぐらいきれいで、何も言えなかった。
「さて、伯符。逃げようか」
 ぱち、と目があった途端、爽やかに男は微笑んだ。
「へっ!?」
 え、いきなり?逃げんの?
戸惑う俺の手を男は引いた。
「逃がすかよ!」
 暴漢が弓を弾くのが見えた。先端がまっすぐこちらを向いてうち放たれ、見てられなくてぎゅっと目をつむる。でも想像してたような矢が顔を貫く衝撃も痛みもなかった。乾いた音とともに、矢は目の前の大地に突き刺さっていた。
 男たちが口をあんぐりとしていた。俺も同じ気持ちだった。だってこいつ、後ろ向いてたはずなのに。さっきと何一つ変わらない涼しげな表情を見つめた。
こいつ、すごい。
「死ねやあ!」
 叫び声と同時に放たれた矢は全てが一振りで防がれてしまい、さっきまでの余裕の表情は化け物を見た時の怯えた顔へと変わっていた。だけど、当の本人は全然気にすることなく俺を抱きよせるとまっすぐ剣の先を男たちに向けた。
「大人しく退いいた方がいい」
「な、何だ、テメエ!」
「答えるつもりはない。この世界に極力干渉もしたくない。何より教育に悪いものは見せたくないのだが。望みなら仕方あるまい。貴様らの贓物を残さず全部ぶちまけて母なる大地を赤く染め上げたところで私は一向に構わないぞ」
「ぜ、前半と後半で言ってること違いすぎる!」
「こいつ、やべえよ!」
 うん、俺もそう思う。汗すらかいてないし。爽やかな顔だし。
「この子に手を出したことを、地獄で後悔させてあげよう」
 ぞっとするような笑顔だった。あまりの迫力に男たちは後ずさり、わめきながら馬を走らせ地平線の彼方へ消えていった。
「初めからああすればよかったか」
遠ざかる後姿を見ながら剣をしまい、男はぽつりと呟いた。
「さて、大丈夫かい?」
 鮮やかな黒い髪をかきあげ、微笑む。
「お、おう」
 殺気が消えた目は居心地が悪くなるぐらい優しくて、くすぐったくなる。俯くと、不意に頬を包み込むように男の手のひらが触れた。驚いて顔を上げると、どこか仕方ないなあというような、困ったような笑顔があった。
「こんな小さい頃から危ないことばかりして」
 その言葉があんまり優しいから、ぐっと言葉を飲み込んだ。そうでもしてないと、このどこまでも優しいぬくもりに負けて、自分がどうにかなりそうだった。
「君が無事でよかった」
添えられた手が、頬を滑り顎に触れた。あ、と思った瞬間、視界が男でいっぱいになって、唇に暖かくて柔らかい何かが触れた。
「伯符」
 なんで、おれの名前知ってるの?
 聞こうとしたことばは音にはならなかった。
雨の匂いのする風が髪を揺らす。襲われてぼさぼさになった髪を丁寧に梳かし、最後に男がおでこに口にしたのと同じことをして、名残惜しそうに離れるまで動けずにいた。後のことはよく覚えてない。どうやって歩いたのかも、どうやって帰ったかも。夕日は美しかったのに、その晩はひどい雨だった。花は散ってしまった。1年ぶりにその晩俺は熱を出した。誘拐されそうになったこと、あの謎の男のこと、どっちに驚いたのかわからない。ただ、このことは誰にも言わないでおこうと思った。


 男が丁寧に結わいてくれた髪飾りは、家に着く前に外した。箪笥の奥にしまっている赤い珊瑚で作られたそれを見ると、髪に触れた指の記憶が蘇り落ち着かない気持ちになった。誰にも言えない秘密の形を持った証みたいだった。
 見られたのは一度だけ。何かの拍子に幼馴染の前でその引出をひいてしまった時だけ。慌てて背で隠すようにすると、そこには怪訝そうな顔でじいっとこっちを睨んでいる親友の顔があった。
「見た?」
「別に」
「嘘、見ただろう、お前」
「見てない。知らない。興味ない」
「なんだよその態度」
「『見た』って言ったら『なんで見たんだよ!』って怒るし、『見てない』って答えたら『嘘つき』って言うし」
「う、うるせえなあ」
 いつも大人びている幼馴染は、ふーんと拗ねた顔をした。
「そういう趣味なんだ」
「何だよそれ!やっぱ見たんじゃねーか!」
「見ーてーまーせーんー」
「うそつきー!!」
 その日は結局取っ組み合いになって終わった。言い争いをしながら、箪笥の奥に眠る、鮮やかな赤の髪留めのことなんて忘れてくれることを願った。




「君は、何度言われても、こうして一人で出かけて、そして襲われる訳だ」
 いい加減お母様に言いつけないと、と、今し方自分が倒した骸を見やりながら、男は意地悪く言った。何も言えずそっぽを向く。闇の中は半分に欠けた月明かりしかない。僅かに笑ったみたいな男は、血腥い夜の風の中でも綺麗だった。
「少し、背が伸びたね」
 はっと顔を上げた。男の手が髪に触れた。女みたいに繊細な触れ方をするのに、手はちゃんとごつごつした大人のそれだった。子ども扱いは好きじゃない。撫でられた髪を乱暴に直す。
「俺、早くおとなになりたい」
「ならなくていいよ」
触れた手が顎にかけられる。後はあの時と一緒。噎せ返る程の血の香りなんて忘れてしまいそうな、花の匂いとも風の匂いとも海の匂いとも違う香りに包まれる。最後に閉じた瞼の上に唇が触れて、目を開けた次の瞬間消えてしまっている。そして俺は途方もなく悲しい気持ちになる。
 男は突然現れた。それも決まって、一人で、もうダメだって、おしまいを意識するような時に現れた。男はどこまでも自分を甘やかした。慈しむような触れ方に、名前も知らない綺麗なこの男は、きっと大事な人を亡くしたのだろう。悲しみを抱いた人の優しさは、悲しさを知らない自分にもじわじわと伝わってきて、泣きたくなった。
 瞼を開けた瞬間、先程までの懐かしい香りは消えていた。欠けた月の光を頼りに、血で濡れた路地を後にした。次はいつ会えるのだろう。いつ、会いに来てくれるのだろう。そんなことを考えながら歩いた。会えない予感だけはいつだって鮮明だった。

 少しずつ成長していく過程で世界はめまぐるしく変わっていっても、あの男だけはいつも何も変わらなかった。一生懸命呼吸をつづける日々のぽっかり空いた隙間の瞬間、胸を占める姿は、ただ遠くて、そればかりを考えるようになった。どうすれば近づけるんだろう。
「何?」
「いや」
 先程まで琴を弾いていた親友は、相変わらず自分より一歩も二歩も先を歩いているように思えた。同じ速度で生きているはずなのに。少し悔しい。このやろ、と思っていると、ふと香る匂いに全部吹っ飛んだ。
「あ」
「わっ」
すんすん、と鼻を鳴らしていると、驚いたみたいで慌てて身を引いた。迷惑というより困惑しているようだったが気にしない。何だろう、と考える。どこかで嗅いだ匂い。落ち着いた、でも決して冷たくなく、爽やかな優しい香り。はっと脳裏に、優しく細められた目と、緩やかに綻んだ口元が浮かび、続いて耳元を擽る甘い声が蘇った。あの男の匂いだ。
気付いた途端、胸がきゅうっと締め付けられるような切なさがこみ上げてきた。
「どうしたの?」
 黙ったまま動かずにいる自分に、幼馴染はもう一度問いかけてきた。はっと顔を上げると、訝しげな視線が痛い。
「俺、この匂い好き」
 嘘じゃなかった。どこまでも自分に甘い、綺麗な大人の匂い。
 今度はあっちが黙る方だった。
「ああ、そうなんだ」とか「ふうん」とか気のない返事をしながら、考え込むように口元に手を当てて視線を逸らせた。心なしか頬が赤いようにも見えたけど、それはきっと夕日が部屋に差し込んでいるからだと思う。そういえば、初めて会ったのも黄昏時だった。だからか、夕日を見るとどうしようもなく切なくなる。
「お茶、持ってくるから」
 顔をそむけたまま、立ち上がるとお盆を抱えたまま幼馴染は部屋を後にした。その頬は、やっぱり普段より赤く見えた。



 その晩。引出の奥に大事にしまっていたそれを、そっと取り出し月明かりに照らして見せた。日中はどこまでも騒がしい家も、日が沈めば静寂に包まれる。窓から覗く月の光は静かだった。夏が終わって、世界は少しずつ眠りへと近づく。平和な町でも、戦場でも、寒さは等しく訪れる。僅かに感じる肌寒さに、息を吐いた。後ろで床を踏む音がして、目だけ向けた。
「いくつになった?」
「十五」
 振り向かなくても、この腕が、声が、匂いがちゃんと覚えている。髪飾りを握った手の上に、男の手が重ねられた。少し低い体温に包まれる。月の光が部屋を控えめに照らし出す。
「もう、俺もおとなだよ」
 俺は笑った。背を預けた男はそれをどう受け止めたのかはわからない。ただひどく胸がどきどきしていた。とても悪いことをしているような気持になった。謝る相手なんていないのに。
「まだ、持っていてくれたんだ」
 髪留めを振りほどけるぐらいの優しい力でそっと奪われ、丁寧に髪を結わく。
「おう」
男の気が済むまでされるがままにしていた。触れられるのは心地よかった。もっと触れてほしかった。もっと心地よくして貰いたかった。
「だって、これしかないし」
 拗ねた気持ちで呟くと、「そうだね」と男は答えた。
「世界に一つしかないと、そう言われたよ。願い事を一つだけ叶えてくれるらしい」
「ふうん」
 他愛のない話をしながら、男は結った髪に顔を埋めるように、後ろから抱きしめてきた。伸ばされた腕に込められた力が強まる。あくまでも大人は大人だった。ただ、ひどく苦しそうだった。何を今更。俺はもうとっくに、覚悟してたのに。
「伯符」
 ずっとこうしたかったのだと、耳元で囁かれたその声があまりに切なそうで、苦しそうで、痛そうで、俺の方が泣いてしまいそうだった。






「願いをかなえる?」
 たどたどしい言葉と、発した内容のあまりの胡散臭さに、親友は怪訝そうな顔を浮かべていたが、俺はそれどころじゃなかった。息をのんだのが分かったのか、今度はその視線をこちらに向けてきたが、何も言えなかった。
異国の、遥か西方に存在する街を行き来する商人が、夏祭りの夜店で売っていたのは男が初めて会ったあの日、渡してくれたものと同じ物だった。正確に言えば俺の持っているものは赤がもっとくすんでしまっていて、こんなに鮮やかな色はしていない。でも、そんなことはどうだっていい。どうして、どうしてここにあるんだろう?
「この世に二つとない、ねえ?」
 どう思う?と黒い切れ長の目をこちらによこされた。その眼に見おぼえがあって、俺は少しどきっとした。男と比べると、その眼は鋭い。逃さないという意志が見えて、ぐっと息をのんだ。
「…欲しいの?」
「い、いい」
 慌てて首を振ったが、頭の中は大混乱だった。一体なんで、どうして?なんで?
 なんだかひどく打ちのめされた気持ちになった。夢から覚めたみたいな、悲しい気持ち。なんだよ、うそつき。ほかにないって言ってたのに。きゅっとこぶしを握った。
きっとそれは自分がまだ子供だからだ。あの男に見合うような、立派な人間じゃないから、あんなことを言ったんだろう。
 早く、早く大人にならなくちゃ。
「行こう、公瑾」
 言いながら俺は立ち上がって歩き出した。これで考えるのをやめようと思った。あの髪留めも、想い人が恋しいからって、親友にだぶらせてしまったことも、なかったことにしようと思った。背を向けていたから、すぐ後ろで「これください」って風の速さで会計を済ませてそっと懐に忍ばせていたことなんて気づくこともなかった。歩きながら、あの日の晩のことを思い出していた。

『俺、早く大人になりたい』
『大人になんて、ならなくていいよ』
 傾きつつあった月の光は相変わらずつつましく部屋を照らしていた。男の腕は暖かかった。触れる部分から伝わる温もりが嬉しかった。それでもどこか、男は遠かった。
『なんだよ。折角俺が天下を取って、お前を臣下にしてやるって言ってるのに』
 髪を優しく梳かしながら、男は微笑んだ。猫が撫でられるように、されるがまま目を閉じた。男は瞼の上にそっと唇を落とす。
『大人にならなくても、私はずっと君と共にいるよ』
『うそ』
『嘘じゃないさ』
 ふふっと、男は微笑んだ。
『君が気づくずっとずっと昔から、私は、君を』




 でも、俺はお前に早く会いたかった。








 荒い呼吸と痛みに目が覚めた。雨の音が世界を覆う。花の季節はいつもそうだ。大きく息を吐く。眠っても全身を蝕む倦怠感は拭えない。著名な医師が看破した毒は、彼が猛毒と宣言するだけあってよく効いた。こんなにも確実に自分が死に近づいているのを意識することはなかった。汗を吸った寝間が鬱陶しい。武人が鎧を脱いだら行く先は棺桶しかない。一歩ずつ階段を上るように、近づくそれに恐怖した。直に訪れる終わりへの恐怖。だが慰めるものはない。何度も自分を守ってくれた、あの大人はここにいない。
何もこんな時に思い出さなくてもよかったのに。
 鮮やかな髪留めは今もまだあの引出の中にしまったままだ。もう二度と会えないとわかっても、捨てることが出来なかった。
雨は降り続ける。耳を澄ませながら、自分が世界から消えた後のことを考える。君主としてではなく、たった一人の人間として、同じくたった一人の人間のことを。主を失った物の中から、きっとそれをお前は見つけるのだろう。そして繰り返すのだろう。大人のお前に惹かれた子供の俺は、すぐ近くにあった想いには気づかない。気づけない。
精一杯前だけを向いて走ってきた。振り返ることなんてできなかった。早く、早く、大人になりたかった。
「ばあか」
 もうお前に会えないのに。何も、こんな時に気付かなくたって良いのに。
「ばかだなあ、俺達」
 額に手を当てて、呟いた。疲れた頬に涙が伝う。そして終わるのだ。どちらの思いも成就しないまま、静かに終わるのだ。

過去の自分を犠牲にして、お前は幸せだったのか?それでよかったのか?


「答えろよ、公瑾」
 呟いた問いは誰にも届くことなく、この雨で散るだろう花と、停止へと向かう鼓動と共に闇へ消えた。
















Never let you go

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