鬼は本来強い生物だ。

人間風情には触れられない位には強い生物なのだ。鬼男に至っては若いながらも閻魔大王直属の部下で秘書であるから、必然的に他鬼を凌駕する強さを持った鬼である。しかし、絶対服従の忠誠心と愚かなる理性で力を制御してこその獄卒は、あまりに無力だった。強大な力は使うことが許されず、威嚇以上の攻撃も許されない。迎撃も同じく許されず、殆ど無いに等しい主の命令が下った刻のみ力を揮うことが許される。それは近刻における「悪ゴメス天国侵入事件」にても明らかである。
それは当然の理であると共に、閻魔には小さな棘であった。

ほら見ろ、こんな日が来ると思ってたんだ。

閻魔は冷えた思考で、そう思った。眼前の血溜まりの香りが肺に重く溜まるのを、一つ息を吐くことで誤魔化した。隙間風のような呼吸が哀れな獄卒の存在を繋いでいる。微風のような痙攣が愚かな秘書の役割を繋ぎ止めている。


「鬼男くん、この書類急ぎみたいだから出してきてくれる?」


冥府の王は慣れたように、しかし本来まったく場にそぐわない態度で、王座にだらしなく座ったまま一枚の紙をひらり、と差し出した。命令さえ与えれば床に転がった紅い身体が即座に立ち上がるものだと信じて疑わない声音が、空々しく響く。


「、はい、少々、お待ち下さい」


肺に傷でも付いたのだろうか、黒い血が有能なる青年の唇を這い滑っている。呪符と共に腕を突き入れられた腹からはびちゃり、と厭な音と共に細切れた何かが零れ落ちた。


「掃除は、戻、り次第、致します…、どうか今暫、く、お待ち下さい、ませ」


申し訳ありません、と掠れた声が洩れ、傷の深さを感じさせない慇懃な辞儀の後には軽々しい戸の開閉音が残った。





秘書が退室した部屋には、向かい合う裁く者と裁かれる者とだけが存在している。

都合良く捏ち上げられる書類があって良かった、日頃の行いによるものに違いないと、冥府の主は態とらしく同僚に祈りを捧げる。今は親を失った眼前の血溜まりさえ、所詮は人間のすることだ、と考えると非常に愛らしいように思われていた。
裁く者は曖昧に涼やかで、答えしか持ち合わせない玲瓏な瞳で裁かれる者を眼差した。裁かれる者は裁く者の眼差しに射殺されれんばかりの恐怖を感受しながら、死を与えてはくれぬ恩情とが入り混じる優しげで老成した子どもらしい微笑みを見つめている。


「そうだね、君の罪を言ってごらん」

 
閻魔は震えて歪んだ醜い面に付着した穢らわしい赤に、そっと吐息のような声音で話し掛けた。絶対なる神の啓示に、赤に彩られた身体が更にがくがくと痙攣し始める。うわぁ、アカがボタボタきもちわるいゴミだな、等と悪童は無関心に思った。しかし同時にその赤が愚かなる従者のものと思えば、愛おしくてたまらなかった。眷属への愛おしさに、思わず王座から降りた眩いばかりの暗鬱はかつかつ、と靴音を響かせて許される者へと腕を伸ばした。


「ほら、その愚かで穢らわしい唇で」


何も恐れる要素がない程に白くか細い骨のような指が、滑らかな動きでもって罪人の頬を撫でていく。託宣を紡ぐ薄い唇の主は眼前の赤く穢れた咎人の唇以上に、自らの唇から漏れ墜ちる言の葉が穢らわしいように思われ、堪らなく笑いたくなるのを堪えていた。
とある国では八百万の神々等という言葉と共に嘘八百等という言葉が在るらしいことの滑稽さに似ている、そんな戯れ事を考えて冥府の主はうっそりとした微笑みの形を唇に表した。


「そうしたら」


ゆるしてあげる、

そう囁いた冥王の御心等、とうに部屋を抜け出ていたのだと誰が知ることだろう。














「、大王?」
「あ、鬼男くん大丈夫?」


床に伝う赤を拭い取ろうと、膝を地につけ這い回る主君の姿に眷属は目を見開き、続いて有らん限りに絶叫した。


「僕が大丈夫じゃないわけないでしょう、それよりも、大王がそんなことしないで下さいっ」


慌てて立ち上がらせ雑巾を取り上げた後、忙しなく衣の汚れを叩く眷属の気遣いと忠誠心を嬉しく思わないわけではない主君だが、些か過保護過ぎやしないか、と頬を膨らませる。


「、大王だって掃除くらいするさ」
「それはそうですが、…って、そうじゃなくて「貴方」がこんなものの始末なんかしないで下さいっ」

  
絶対なる主君が地べたを這い回る必要性は欠片もない、と抗議する眷属の言葉は尤もではある。世界が、冥府が、大気が、摂理が、そう言わしめるのだから間違いない。それを承知して尚、主君は言の葉を織り上げるのだが可愛げなる眷属がそれを良しとしないのは自明の理とでも言うべき所であろう。


「苦手だということはわかっていますから僕が片付けます、今直ぐにです。だから貴方はっ、…、貴方は、我慢して苦手なものを片付けたり等しなくていいんです」


ましてやこんな穢らわしいもの等、と眷属が言うように、この冥府を司る偉大なる主君は血液、というものが苦手で前触れも無く触れる等すると悲鳴を上げる程であり、また、掃除も基本的に任されることがない高々級の御身分で当方自身も進んでやろうと思ったことはない。自らのことなのだから、そんなことは百も承知である。


「鬼男くん、怪我の手当てした?」
「殊更手当てが必要な程の傷ではありませんが貴方が気になるのでしたら、片付けさえ終われば直ぐにでも手当てさせて頂きます」
「ダメ、今直ぐじゃなきゃダメ」
「しかし、片付けが、」


百も承知だが、しかし、気にすべきはそんなことではないのだ。特別に愛おしい、この眷属の哀れな程に脆弱な身体が非常に心許なく、疎ましく思われるのである。冥府の主である以上、常に先進的かつ使い古した正しき倫理を護り、万物に公平でなければならないことには承知しているものの、やはり殊更に愛玩するモノがないままではいられないのが、元大罪人としての揺らぎなのだ。揺らぎの素を理由に揺らがないでいられるのは、その身に持ち得る矜持と、許されない愛故だ。


「いいから。オレ、鬼男くんのなら嫌じゃないから」


眷属は慈悲深き御方の寵愛を一心に受けているモノが自身であることを、自惚れ無く感受していた。そして、その寵愛故に主君が異常極まれり過保護を発揮することもまた理解していた。


「…、わかりました。直ぐにでも」


反抗、抵抗、異論等は無意味と思い、手身近に備えておいた薬箱より取り出した包帯をしゅるり、しゅるりときつく巻き付けていく。その姿の凛々しさと逞しい精神性に主君は朝露のように清らかな泪で瞳を潤すのである。


「…これで、構いませんね」
「ダメ、今日の君は、もうお休みだよ」
「、閻魔大王様」


愚かで愛おしげなる稚児の駄々に、主君は一つ言葉を授けなさる。

 
「知ってる?何処かの国での今日は勤労感謝っていう祝日らしいよ」
「ならば、大王を休日にするわけには参りませんから、代わりに少しでもお休み下さいね」
「オレじゃなくて鬼男くんが、」
「大王が御心を砕かれている中、休んでいるわけには参りません」
「ダメ、オレ君を愛してるから」


罪深き御言葉を賜り、極悪非道、冷酷無比と囁かれる鬼のなけなしの心が揺らぐ。主君の清らかな瞳に眼差され、否、と唱える不届き等許されるわけもない。


「それでは、」


譲歩、等という傲慢が許されるわけもないが、御心深き主への精一杯の甘えに他ならないその言葉は小さく、しかし芯のある凜とした声音で洩らされた。


「それでは、手伝って頂けませんか?」


手伝う、ということは掃除の役目を眷属が担うことを意味する。しかし、主君が携わらないでいることとは異なるということでもある。


「二人ならば、早く終わりますよね?」


眉尻を下げて伺いを立てる有能なる眷属に、冥府の主は天国に咲き誇る蓮のような麗しやかな微笑みを灯した。


「うんっ。じゃぁ、二人でね?」











二人で居られる時間が何よりの癒やしとなるから、





















 

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