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□駆け抜ける時の中
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「今が講義中で、よかった。

…もし休憩時間だったら、貴女には学童が群がっていたでしょうからね。

そんな状態じゃ、落ち着いて話せないわ」

エサルはそう言いながら、二人の客の前に茶を置いた。

礼を言ってからエリンは茶碗を手に取り、入れたての茶を口に含んだ。

(―…やっぱり、何年経っても変わらない)

柑橘系の香りを感じながら、エリンは思った。

十年位前、ジョウンに連れられて<入舎ノ試シ>を受けに来た時と、同じ香り。

このエサルの淹れた茶を飲むと、不思議とエリンは、安堵感を覚えるのだった。

「―それで、リラン達は変わりない?」

「はい。たまに腹痛を起こすことくらいはありますが、健康です」

「そう」

自身も茶碗に口をつけながら、エサルは小さく頷いた。

ふと、思い出したようにエサルは茶碗を机に置き、エリンの隣に座る男に声をかけた。

「……エリンと二人暮らしをしていると、言っていましたよね」

目の前にいる元武人に、どんな言葉遣いをすればいいのか、エサルは判断できずにいるようだった。

微かにその悩みの色を瞳に映したエサルを見、イアルは苦笑しながら口を開いた。

「普通に話していただいてかまいません。

わたしはもう、武人でも≪堅き楯≫でもありませんから」

曖昧に頷いたエサルに、エリンが小さく肩を竦めた。

「…わたしも、普通に話していいと言われているのですが。なかなか、言葉遣いは直せません」

「その気持ち、よく分かるわ」

エサルは微苦笑を浮かべると、改めてイアルに視線を戻した。

「―……これだけ、聞かせてちょうだい。

貴方は、エリンを連れ戻そうとは、…思っていないのね?」

多少ぎこちない言葉遣いながらも、エサルは静かに問うた。

それを聞いたイアルは、無言のまま頷いた。

一見しただけでは無表情だが、彼の瞳の奥には、強い光があった。

エサルは黙ってその顔を見つめた。

暫くすると、エサルはふっと微笑み、「わかったわ」と呟いた。

そして、茶をもう一口飲んでから、エサルは話題を変えた。


―…

どれ程の時間、話し込んだだろうか。

鐘の鳴る音が高く響き、エサルは微かに眉を上げた。

「休憩時間になったみたいね。

何だか、時間が経つのも忘れていた気がするわ」

「確かに、私もそうだったかもしれません」

エサルは、エリンに笑い返してから、ふと口を開いた。

「今頃、学童達にも、貴方が来ているという話が広まっている事でしょう。

久しぶりに、会ってきたらどう?」

「いいんですか?」

「もちろんよ」

花が咲いていくように、エリンの顔が笑顔になるのを見て、エサルは僅かに口元を緩めた。

「…時間があったら、保護場の中を久しぶりに歩いてもらってもかまわないし。

確か、明日の朝にここを発つんだったわよね」

「はい。リラン達のこともあるので…」

エサルは頷いた。

「なら、今日はゆっくりしていきなさい。

貴女が使っていた部屋がまだ空いているから、そこを使ってちょうだいね」

エリンが頷いたのを確認してから、エサルは椅子から立ち上がった。

続けて二人の客も立ち上がる。

扉から出ながら、イアルは振り返り、小さく頭を下げた。

「御茶、ありがとうございました。美味しかったです」

「いえいえ」

かつて武人だったとは思えない、その口調と柔らかな表情を見て、エサルは微かに眉を上げた。

「イアルさん、まずは教室へ行ってもかまいませんか?」

「ああ」

「あ、こっちです」

(―…驚いた)

廊下の先を指差すエリンの顔を見たエサルは、心の中で密かに思った。

(エリンも、こんな顔をすることがあるのね)

楽しそうでいて、穏やかな笑顔。

「…エサル師、失礼します」

エリンの言葉に反応して、エサルは頷くと、静かに扉を閉めた。

エサルは、足音が遠ざかっていくのを聞きながら、僅かに笑みを浮かべた。


遅いながらもやってきた、エリンの平穏。

平穏が遅れてやってきたというのは、あのイアルという男も、同じなのだろう。

平凡な日々の価値を知っているあの二人なら、互いを支えあって、これからも歩いていけるだろう。


イアルと共にいる時のエリンの顔、そして、エリンを見るイアルの瞳に浮かぶ、優しい光。

それらを思い返しながら、エサルは、自身の胸に温かいものが広がっていく感覚を覚えた。


書類や書物が置かれた机の前に座り、エサルは、つい先程まで二人が座っていた椅子を眺めた。

(…よかった)

エリンが、あのような表情をすることができるようになったこと。

エリンが、静かに、幸せに暮らすことができるようになったこと。

そういったことに安堵感を越す喜びを感じながらも、エサルは気持ちを切り替え、静かな表情で自身の仕事を再開した。



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