Short
□駆け抜ける時の中
2ページ/5ページ
「今が講義中で、よかった。
…もし休憩時間だったら、貴女には学童が群がっていたでしょうからね。
そんな状態じゃ、落ち着いて話せないわ」
エサルはそう言いながら、二人の客の前に茶を置いた。
礼を言ってからエリンは茶碗を手に取り、入れたての茶を口に含んだ。
(―…やっぱり、何年経っても変わらない)
柑橘系の香りを感じながら、エリンは思った。
十年位前、ジョウンに連れられて<入舎ノ試シ>を受けに来た時と、同じ香り。
このエサルの淹れた茶を飲むと、不思議とエリンは、安堵感を覚えるのだった。
「―それで、リラン達は変わりない?」
「はい。たまに腹痛を起こすことくらいはありますが、健康です」
「そう」
自身も茶碗に口をつけながら、エサルは小さく頷いた。
ふと、思い出したようにエサルは茶碗を机に置き、エリンの隣に座る男に声をかけた。
「……エリンと二人暮らしをしていると、言っていましたよね」
目の前にいる元武人に、どんな言葉遣いをすればいいのか、エサルは判断できずにいるようだった。
微かにその悩みの色を瞳に映したエサルを見、イアルは苦笑しながら口を開いた。
「普通に話していただいてかまいません。
わたしはもう、武人でも≪堅き楯≫でもありませんから」
曖昧に頷いたエサルに、エリンが小さく肩を竦めた。
「…わたしも、普通に話していいと言われているのですが。なかなか、言葉遣いは直せません」
「その気持ち、よく分かるわ」
エサルは微苦笑を浮かべると、改めてイアルに視線を戻した。
「―……これだけ、聞かせてちょうだい。
貴方は、エリンを連れ戻そうとは、…思っていないのね?」
多少ぎこちない言葉遣いながらも、エサルは静かに問うた。
それを聞いたイアルは、無言のまま頷いた。
一見しただけでは無表情だが、彼の瞳の奥には、強い光があった。
エサルは黙ってその顔を見つめた。
暫くすると、エサルはふっと微笑み、「わかったわ」と呟いた。
そして、茶をもう一口飲んでから、エサルは話題を変えた。
―…
どれ程の時間、話し込んだだろうか。
鐘の鳴る音が高く響き、エサルは微かに眉を上げた。
「休憩時間になったみたいね。
何だか、時間が経つのも忘れていた気がするわ」
「確かに、私もそうだったかもしれません」
エサルは、エリンに笑い返してから、ふと口を開いた。
「今頃、学童達にも、貴方が来ているという話が広まっている事でしょう。
久しぶりに、会ってきたらどう?」
「いいんですか?」
「もちろんよ」
花が咲いていくように、エリンの顔が笑顔になるのを見て、エサルは僅かに口元を緩めた。
「…時間があったら、保護場の中を久しぶりに歩いてもらってもかまわないし。
確か、明日の朝にここを発つんだったわよね」
「はい。リラン達のこともあるので…」
エサルは頷いた。
「なら、今日はゆっくりしていきなさい。
貴女が使っていた部屋がまだ空いているから、そこを使ってちょうだいね」
エリンが頷いたのを確認してから、エサルは椅子から立ち上がった。
続けて二人の客も立ち上がる。
扉から出ながら、イアルは振り返り、小さく頭を下げた。
「御茶、ありがとうございました。美味しかったです」
「いえいえ」
かつて武人だったとは思えない、その口調と柔らかな表情を見て、エサルは微かに眉を上げた。
「イアルさん、まずは教室へ行ってもかまいませんか?」
「ああ」
「あ、こっちです」
(―…驚いた)
廊下の先を指差すエリンの顔を見たエサルは、心の中で密かに思った。
(エリンも、こんな顔をすることがあるのね)
楽しそうでいて、穏やかな笑顔。
「…エサル師、失礼します」
エリンの言葉に反応して、エサルは頷くと、静かに扉を閉めた。
エサルは、足音が遠ざかっていくのを聞きながら、僅かに笑みを浮かべた。
遅いながらもやってきた、エリンの平穏。
平穏が遅れてやってきたというのは、あのイアルという男も、同じなのだろう。
平凡な日々の価値を知っているあの二人なら、互いを支えあって、これからも歩いていけるだろう。
イアルと共にいる時のエリンの顔、そして、エリンを見るイアルの瞳に浮かぶ、優しい光。
それらを思い返しながら、エサルは、自身の胸に温かいものが広がっていく感覚を覚えた。
書類や書物が置かれた机の前に座り、エサルは、つい先程まで二人が座っていた椅子を眺めた。
(…よかった)
エリンが、あのような表情をすることができるようになったこと。
エリンが、静かに、幸せに暮らすことができるようになったこと。
そういったことに安堵感を越す喜びを感じながらも、エサルは気持ちを切り替え、静かな表情で自身の仕事を再開した。