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□呟いたのは感謝の言葉
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―…手紙には、ユーヤンらしい柔らかな字で、こう綴られていた。
『― 手紙、ありがとな。読んだでぇ。
あたしでよかったらいつでも話は聞くから、手紙送ってな。
それで、あの手紙の返事やけどなぁ。…あくまでも、あたしの意見やで?
…とにかくエリンちゃん、くれぐれも、無理だけはしたらあかん。これぐらいの時期は、安静にしとくのが一番大切なんや。
まあ、あのエリンのことだし、動きたくなる気持ちも分かるわ。
だけどなぁ、もし、動き回った時に、どこか怪我でもしたら、そりゃ大変な事になるんや。
もう少しの辛抱や、エリンちゃん。
それになぁ、あんまり焦らんでも、あと数月経てば、産まれる予定なんやろ?
…そしたら、嫌でも動き回らないけなくなるんやから。大丈夫や!
今は休憩時間だとでも思って、旦那さんに頼ってみたらどうや?
どうしても退屈なら、そう言って相談してみてもいいんやないやろか。
絶対に運動はしたらあかん、てことでもないんや。適度な運動も必要なんやて。 ―…』
ユーヤンの、あの明るい声が、聞こえてきそうだった。
(―…休憩時間、か)
小さく笑みを零しながら、エリンは湯飲みの茶を飲んだ。いつの間にか、茶は残り少なくなっていた。
(なるほどね。…そう考えるのもいいかもしれない)
目元に微笑を宿したまま彼女が扉のほうを見やると、丁度、扉が開いてイアルが入ってきた。
目が合って、小さく首を傾げると、彼はまるで心を読んだかのように苦笑を浮かべた。
「…退屈しているんだろう」
同じ様に苦笑しながら頷くと、彼の苦笑は、穏やかな微笑みに変わった。
「少し、外へ出るか」
いいの、と尋ねる。暫くの後に、気を付ければ大丈夫だろう、と返ってきた。
イアルに助けられながら小屋を出ると、すう、と頬を風が撫ぜる感覚がした。
朝特有の、澄み切った空気。それを肺一杯に吸うと、とても気持ちがいい。
晴れ渡った青空も、風に揺れる草花も、周りを照らす陽の光も―…。全てがとても、まぶしく輝いているようだった。
「この辺りに座ろう」
イアルが言い、二人は草の上に腰を下ろした。
並んで座る彼らの頭上を、一羽の山鳥が、高く澄んだ声を響かせながら飛んでいく。
先程と同じ様に空気を吸い込むと、今度は、若草の匂いに混じって、僅かに雨の匂いもするように感じた。
「…ありがとう」
遠くで日向ぼっこをする王獣達を眺めながら、指先で草に触れていると、不意にイアルが呟いた。
振り向いたエリンと目が合えば、小さく笑って、ごまかすように視線を逸らす。
エリンの妊娠が分かってから、イアルは毎日のように、彼女に「ありがとう」と呟きかけた。
それに反応したエリンから視線を逸らすのも、いつものこと。
そうして、暫し黙った後、イアルが決まって紡ぐ、次の言葉は。
「―…『すまない』は、言わないで」
まさに今言おうとしていたのだろう、彼の瞳が小さく揺れたのを、エリンは見逃さなかった。
「貴方はわたしに、何か嫌なことでもしたというの?…わたしは、」
エリンは一旦言葉を切ると、静かに一息ついてから、傍らに腰掛けているイアルを見た。
無意識に、自身の腹に手を添える。イアルの、湖面のように深い色をした瞳を見つめながら、彼女は言葉を継いだ。
「…わたしは、イアルに感謝しているのよ。
この日々も、この感情も、…この子も。全て、貴方が与えてくれた。
今、こうして傍に居てくれることが、本当に嬉しいの」
イアルが躊躇いがちに手を伸ばし、頬に触れると、その新緑の瞳から、涙が一筋溢れた。
エリン、と名を呼ばれると、搾り出すように、ぽつりと呟いた。
「幸せだと、わたしは、感じているのに…。貴方は、そうではないの……?」
イアルは眉根を寄せ、首を横に振った。頬を流れ伝う涙を指先で拭うと、そのまま、エリンを自分に引き寄せた。
「イア、ル」
「―…俺も、幸せだと思っている。ただ、それが逆に、怖いんだ」
最後の言葉に、エリンが顔を上げると、イアルは僅かに顔を歪めていた。それはどこか、泣きそうであるようにも見えた。
「大切であればあるほど、それが無くなったときの傷は、深くなる。…護衛士をしていた頃は、未来の事は考えないようにしていた。
明日を想わなければ、それが無くなろうとも、傷つかずにすむと思っていた。
だが、今は、そう考える事が出来なくなっている」
言うと、背中に回された腕に力がこもる。
エリンの涙は、いつの間にか止まっていた。彼女はただ静かに、彼の言葉に耳を澄ました。
「どうかこれからも共に在りたいと、考えてしまう。この毎日を、失いたくないと。
…時々、思ってしまうんだ。いつか自分で、誤ってこの日々を壊してしまうのではないかと。そう思って、怖くなるんだ」
エリンは僅かに眉を下げると、イアルの背中に、自分の腕を回した。
イアルがこんな弱音を吐くのは、珍しい。己の心の内に溜め込んでいたものが、溢れ出たのだろう。
「―…だけどイアル、無理はしないで。お願いだから」
思えば、イアルは近頃ずっと、自分の仕事よりエリンを優先していたのだ。
朝餉、昼餉、夕餉の支度に、洗濯や、蜂達とリラン達の世話。小屋の掃除さえ、ほとんどイアルがこなしていた。
その他の時間も、何かあるといけないと、イアルはエリンの体を気遣った。いくらなんでも、相当な負担だっただろう。
エリンは顔を上げると、しっかりとイアルを見据えながら、語りかけた。
「大丈夫よ。わたしが自分の意思で貴方の前から消えたりなど、絶対にないから」
そして、イアルが何か言うよりも前に、次の言葉を紡ぐ。
「明日からは、わたしも家事をするわ」
その声には有無を言わせない響きがあり、つい、イアルは苦笑いを零した。
穏やかな太陽の陽が、辺りを包む。
とん、と肩に少しの重みを感じて、イアルは、自分の肩に寄りかかり、眠たそうに目を細めているエリンを見た。
小さく微笑を浮かべて髪を撫ぜれば、その瞼は静かに下ろされた。
それほど間をあけること無く、小さく寝息が聞こえてくる。
エリンの寝顔を見つめながら、彼は静かに笑みを零した。
「…与えられたのは、俺のほうだ」
ゆっくりと、心地よい眠りに落ちていったエリンが、その呟きを聞くことはなかった。
呟いたのは感謝の言葉
(今のこの瞬間も、全てあなたがくれたもの)
→アトガキ