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□灯火は光の内に
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イアルが床を箒で掃く落ち着いた音を聞きながら、エリンは壁に立て掛けられた箒を持った。
悪い癖だ、と思った。
つい、色々と動き回りたくなってしまう。
彼が自分の体を気遣ってくれていることは、よく分かっているのに。
そういえば今朝、掃除をすると告げたときも、イアルは先程のように微かに苦笑していた。
ぼんやりとそんなことを考えながら箒で掃いていると、突然腹に小さな衝撃を感じた。
彼女は驚いて目を丸くし、下を向いて自身の腹を見つめた。
暫くすると、再びあの衝撃がきた。
次第に、エリンの顔に花のような笑みが浮かぶ。
「―…イアルさん、イアルさん」
後ろで、名を呼ばれた彼がこちらを見る気配がした。
エリンは笑顔のまま振り返り、少しの間何も言わずイアルの顔を見つめた。
無意識にエリンは持っていた箒を離し、それが木の床に落ちる音もしたのだが、彼女は全く気付いていなかった。
「今、お腹を蹴ったんです」
嬉しさが滲み出るようなその声を聞くと、イアルは小さく眉を上げた。
次いで彼は箒をその場に置き、エリンに歩み寄った。
エリンは、彼が目の前に立ったと同時に、ぽこん、とまた蹴られるのを感じた。
「…ほら、また」
自身の腹に手を置き、微笑みながら彼女が言った。
イアルは何も言わず、服の上からもわかるその膨らみを見つめた。
少し膝を曲げ、手を伸ばしかけてから、彼は目線を上げてエリンを見た。
イアルは、エリンが小さく頷くのを待って、その手で彼女の腹に触れた。
ぽこん、と蹴られるのを彼女が感じると、イアルの顔に、徐々に笑みが浮かんだ。
すると今度は、何度か続けて小さな衝撃が起こる。
「元気だな」
僅かに苦笑しながら彼が言った。
エリンは静かに頷き、自身の腹を見た。
自分の体に、他の命が宿っている。
初めてそれを知った時、どれ程嬉しかったか、分からない。
しかしその時、同時に、実体の無い不思議な感じもした。
その感覚は、今でも変わらない。
それでも、日に日に大きくなっていく自身の腹を見ていると、その度に言い様の無い幸福感に包まれる。
…イアルはどうだろう。
ふとそう思って、彼女は目先のイアルをちらりと見た。
じっと腹を見つめながら、静かに目を細めている。
彼は、自分が父親という存在になったことを、どう思っているのだろうか。
頭の中でその疑問を渦巻かせていると、視線を感じたのか、彼が顔を上げた。
しばしの間、エリンとイアルの視線が絡み合った。
耐え切れなくなったエリンが目を逸らすと、彼は何も言わずに再び下を向いた。
「―……ありがとう」
エリンは、低く、小さく呟かれたその言葉をなんとか聞き取った。
そして、それの意味を問おうとして、はっと口をつぐんだ。
彼の顔に浮かんでいた笑みは、今まで見たどれよりも柔らかく、穏やかだった。
その表情は、他のどんな言葉より、彼の心を物語るものだった。
エリンは黙って彼に微笑み、今も自身の腹を蹴っている、小さな命のことを想った。
灯火は光の中に
(大切なのは、かけがえのないこの時間)
→アトガキ