□とある唇の事情
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「それで――」
「へぇ、じゃあその後大変だったんじゃないか?」
「ええ、ふて腐れちゃってね〜」

普段の神経質っぽい表情は何処へやら、柔和な顔をする修児に、対す穂香もからからと笑みを零す。
和やかな談笑はかれこれ十五分程続いていた。
そして、ふとした沈黙。
戸惑う修児を数秒凝視した後、何を思ったのか、穂香はずいっと修児の方へ身を寄せた。
影が重なる。

ちゅっ

「………。!!?」
「やっぱり…」

白く細い手が伸び、何が何だかわかっていない修児の眼鏡をすっと取った。
途端に暈けた視界で、機能を鋭くさせた耳が、彼女の艶やかな声に酔わされる。

「これ、邪魔ね」

彼の手を流れるような仕草で掬い上げ、自分の手ごとしっかりと持たせて。
今度は自分の眼鏡を下にズラす。
ちらりと上目遣いに窺った修児の表情は、困惑。

(…やぁね、アタシったら)

計算され尽くした行為。
女としての狡賢さを、この生真面目な男は分かっているのだろう。
そしてフェミニスト故の優しさで困惑している。
外ならぬ自分が、困らせて――

「仁藤…?」

はっと我に返る。
訝しげに細まる彼の瞳から逃れたい一心で、心にも無い誤魔化しを口にした。

「うふふっ、冗談よ」

見えていないと知りつつも妖艶に笑んでみせ、胸に置いていた手を離す。
しな垂れかかるように寄せていた、歳にしては早熟な体も修児から遠ざかる。
それでも名残惜しいと胸元を撫でるように掠めた指先に、体は正直なものだと自嘲した。

「どうしたんだ、」
「………」

…察しが良すぎるのも困り者ね。
言葉を詰めた穂香に、修児は慣れた手つきで眼鏡を掛ける。
二人を隔てるのは、微妙で――絶妙な距離。

「仁藤?」
「別にどうもしてないわ」

やっと焦点の合った黒灰が、二つのレンズ越し、穂香の双眸を射抜く。
ただ只官に真っ直ぐなそれに何と言えば良いのかわからなくて、穂香は軽くうつむいた。
いつも自信に満ち溢れている彼女の、常に無いその様子に、本格的におかしいと修児は思った。
自他共に認める聡明な頭脳が恐るべき速さで原因を模索する。が、それでも結果は出てこない。
潔くもう一度訊こうとした修児を、穂香はあ!と声を上げて遮った。

「アタシこれから用事有るから!」
「は?ってちょ…!」

ちろりと出してやった舌はせめてもの悪戯だ。
じゃあねー!と手を振り、来た道を引き返す。
ぱっと華が咲き誇ったような笑みはボリュームのある水色の美しい髪に隠れてしまう。
その後ろ姿は角を曲がる事で見えなくなり、修児は引き止めようと中途半端に上げていた腕を力無く下ろした。

「何だったんだ…?」

取り残された其処で一人、頭を悩ませる。
答えは結局出なかった。


冷たいコンクリートの廊下を一人進みながら、穂香は瞳を眇めた。
そっと胸に手を添えてみる。
今だ高鳴っている鼓動は鎮まる事さえ知らなくて。

「仁藤…?」

耳の奥で谺するのは彼の声。
その度に思うのだ。
――出来るならば昔みたいに、

「名前で呼んで欲しいなぁ…なんて、欲張りすぎかしら」

小さく呟いて、嗚呼もう止め止め!と頭を振った。
杏と華を誘って出掛けよう。
晴矢と茂人、夏彦も巻き込んで、うんっとショッピングを楽しむのだ。
く、と伸びをして、穂香はプロミネンスの談話室へ駆け出した。



とある唇の事情
(仁藤は冗談でキスするのか…?いやそんな筈は、しかし事実さっき本人が…)(あーあ、恋って難しい!)
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