□氷塊の中
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「別れよう」

冷たく、冷たく。
抜け落ちたような無表情で告げられただろうそれに、由紀がぴたりと動きを止めた。
ゆっくり俺を見上げると同時に指先が仮面に触れたのを見て、安堵を感じる自分が厭らしい。
彼女が顔を隠す仮面に触れるのは、困惑・混乱・不安・戸惑い・躊躇・拒否のどれかの証なのだ。

「ど、して…」

ずしりと胸の痛みが増す。
酷く掠れた声。
聞き取りずらい筈のそれは不思議な程よく聞こえた。
表情を隠す仮面越し、それでも目を合わせて「疲れたんだ」と短く答える。

「つかれた…?」

そう、疲れたんだ。
馬鹿みたいに独占欲や支配欲が強い俺自身に。
沈黙に耐え切れず視線を逸らし、そして固まった。

「由紀、熱波」
「!」

ふうすけさま、
振り返った由紀がか細い声でそいつの名を呼ぶ。
何で、という疑問が頭を埋め尽くした。
内容が内容だから人気の無い場所を選んだ筈なのに…!
腕を組んだまま由紀の隣へ並んだ涼野は、先程からずっと俺を見据えたままだ。
立ち止まった靴音が厭に響く。

「朝からクララが嫌な予感がすると言ってな。私も何処か落ち着かない気分だった。貴様が由紀を呼び出したのにまさかと思いつけてきたのだが…当たりだったようだな」

由紀がうつむいた。
儚げに佇む姿にまた胸を締め付けられる。
だが俺は本能に任せて触れるなんてこと、もうしない。
するんじゃないと、今にも動き出してしまいそうな体を気合いで抑える。
しないって決めたんだ。
だから。

「交際から約二年。――所詮はその程度の想いだったか…」

吐息混じりに呟かれた言葉に、カッと血が湧いた。

「ってめぇに何が分かる!!」
「………」
「何も知らねぇくせに…っ」

一度堰を切ってしまえば止まれる筈も無い。
気付けば口から全部零れていった。

彼女を好きになりすぎたこと。
彼女と自分以外が一緒に、近くにいるだけで発狂しそうになる程嫉妬すること。
このままじゃ、何を仕出かすかわからない、こと。

全て吐き出す。
みるみる見開いていく涼野の目に乾いた悦楽が頭を過ぎった。
いい気味だ。
せせら笑おうとした俺は、直後響いた涼野の高らかな笑い声に情けなくもぎょっとした。

「そうか、そう思える程に由紀を好きになったか」

ふふふ、とまた笑う。
間抜け面を曝している俺に、涼野は笑みを深めた。
意味深に細まる瞳から目を逸らせない。

「肯定はしない。やらせもしない。だが、その感情は好ましい」

由紀の肩を引き寄せる、その仕草があんまりにも優しくて。
大人しく身を預ける彼女も警戒なんてしてやしない。

「それ程までに由紀が好きなのだろう?今こうして私が名前を呼び、体に触れていることすら嫌だと思う程」

ひどい表情になっているだろう俺を流し見て、涼野は由紀の頭を撫でる。

「狂えば良いさ」

目を瞠った。
顔を上げた先で尚も笑みを深める奴を見つめる。
由紀が肩を震わし、引き止めるように涼野の服を掴んだのを、冷静な自分が視界の隅に据えた。
今、涼野は何て言った?
狂えば、良いと。
彼女を傷付ける感情に身を任せろと。
そう言ったのか。
まだ正気な今、別れないと俺も由紀も壊れちまうのに。
壊れても良いってのか。
お前にとって、俺はともかく由紀は…!!
そう見遣れば心外だと睨み据えられた。

「元々、我らダイヤモンドダストは異常だ」

依存性も、互いへの想いも。
愛し方も、他人への憎悪も。
貴様一人の存在、無視すればそれだけの事だというのに、由紀が惚れた存在であるが故接触は禁じえない。
それがどれだけの苦痛なのか、貴様には永劫解らぬ程。
この楽園を土足で踏み躙られたというのに排除していないという事が、どれだけの例外か。
滔々と語る声は気持ち悪い程に甘ったるい。

「癇に障るが、君も異常になればいい。我らも受け入れるということになるがな。クララは特に貴様を深みへ堕とすだろう。それに耐えれば良いだけのことだ」

呆然と言葉を聞くしか出来ていない俺に、あぁそれと、と涼野は緩く首を傾げた。
きぃん、と耳の奥が高く鳴る。

「異常でないプロミネンスの者達との絆に少々皹を入れることになるが」

体が大袈裟なまでに震えたのは、どんどん低くなる気温の所為では、ない。
輪郭を伝った冷や汗を気にも留めず、涼野は安心しろ、と呟いた。

「我らは貴様を嫌ってはいない。由紀が好きな存在をどうして嫌える。クララのあれも所謂愛の鞭だ」

嘘吐け。
めちゃくちゃ私怨じゃねぇか。
あんな姑の嫌がらせを愛の鞭だとか、信じられるか。
不信が顔に出たらしく、本当だぞ?と微笑まれた。
更に気温が低くなる。
成程、仲間を疑われるのも気に喰わないらしい。
心をざらりと撫でる美しい笑顔は、いっそ素晴らしいまでに目が笑っていなかった。



氷塊の中
(誘われる)(さぁおいで、と声がした)
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