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□あと何センチ?
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「エールッ」
夜、月夜に照らされて長い黒髪をなびかせた彼女は手をふった。
頬を綻ばせ、手を振り返すと満足げに笑いながら駆け寄ってくる。
「エルのお母さん、心配してたよ。どこに行ったのかしらって」
「あぁ、ランドの家に行ってたんだ。母さんに言った筈なんだけど」
極度な心配性の母の事だ。外に出歩いていなければ良いが。
僕はランドにフェンシングで負け、考古学中毒のランドの語りに付き合わされることになった。そして今、へとへとになりながら帰宅しているというわけだ。
「アスコッド君ちに…でもあの家お父さん厳しくなかった?」
「窓から入ったからさ」
控えめに言う。すると、なまえはパチクリと瞬いた。
そして胸に手をあて深いため息を一つ。
「エルがいつこのステビアノを追い出されるか冷や冷やする」
「はは…悪い冗談はやめてくれよ」
「冗談で終われば良いけど。じゃ早く帰りなよ」
じゃあねと再び手を振る彼女に、僕は何故だかその手を掴んでしまった。特に話があった訳じゃない。このまま彼女を帰したくなかった、それだけだ。
二人の間に空白の間が出来る。
それを先に破ったのは僕だった。
「…えーっと、送らせてよ」
「え、あ、うん。ありがと」
ぎこちないやり取りに更に緊張してしまう。掴んだ腕を静かに離して、僕はなまえの横に並んだ。
そして一歩一歩大地を踏みしめるように歩く。なまえとの歩幅を合わせて。
刹那、冷たく強い風が身体を貫く。
「…冬だね」
「ああ…」
また沈黙。
「…あのさ、なまえの夢ってなんだい?」
「なあに、突然」
「いや…ランドの側にいるとさ、ふと自分がやりたいことは何だろうと疑問に思ってしまうんだよね。ランドは大きな夢を持っていて、僕は何もない。
なまえは何かあるのかなあって気になっただけなんだ。ごめん」
するとなまえは「何を言ってるんだ」とでも言いたげな顔で吹き出した。
一応悩み事だったのだが、なまえの弾けた笑顔で呆気にとられてしまった。
「エルは何でも肩に力入りすぎ。
私は夢…というか願望なんだけど、今日より明日はもっと幸せでありますようにってことぐらいかな。
何もアスコッド君のような大きな夢じゃなくてもいいんじゃない?
いつまでも美味しい紅茶が飲めますようにとかさ」
それは僕の心をいとも簡単に溶かした。
驚いた。彼女の言葉がすんなりと自分の中に入っていく。
「じゃあ…僕はいつまでもこうしてなまえといたい、かな」
再び訪れる静寂。なんだ?何かやらかしたか?
「この天然タラシ…」
真っ赤な顔したなまえがポツリとつぶやいた。
なまえが言った言葉と、自分の言動を思い出す。
…?
「エル、それはプロポーズなの?」
「え?いや…」
「な、ならいいわ。気にしないで」
私だけ勘違いして阿呆らしい、とそっぽを向くなまえ。とても愛らしくて、僕は無意識ながらにプロポーズしたそうだが、それは僕の本音ではないか?
だからほら、その証拠にこの心臓は煩いほどに高鳴っている。
「ごめん」
「あ、謝らないでよ!もっとはずかしーー」
「大好きだよ、なまえ。結婚を前提に付き合わないか。
って、直接言った方が良かったね」
「ーーーっ、!!!」
真っ赤な顔を更に赤くして、なまえは小さく頷いた。
そんな彼女が可愛らしくて愛らしくて、
左手の薬指に一つ、キスを零した。
あと何センチ?
fin.
(二人の間に)(距離は存在しない)