短編小説

□Don't worry,be happy
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…早朝。

少し郊外にある私の最寄り駅は、通勤電車の始発駅だ。

出発時刻より5分程早くその空の電車はホームに入ってくる。

早朝とはいえ、ホームは既に蒸し暑い。

他の通勤客と並んで待っていれば、大概いつも同じ席に座れた。

私はいつも三両目一番前の扉のすぐ脇にある端の座席に座る。



冷えた車両の中に入ると、汗がすうっと引いていった。

これから会社の最寄り駅まではこれから40分も乗り続けなければならない。

バック中に折りたたまれて入っているカーディガンを羽織ったとしても、駅に着くころには体がすっかり冷えてしまっている。

私はいつもの席にすっかり落ち着いて軽く息を吐く。

カーディガンを羽織り、バックから小さな鏡を取り出してそれをそっと覗く。

外の風に少しだけ乱れた前髪を治す。

化粧は家で済ませてきてあるが、口紅だけは会社のロッカーに着いてから塗る様にしている。

秘書を務めている彼女の上司は、年配のかなりのやり手の男性だったが、彼は女性の化粧に少しばかり口うるさい。

厚化粧は嫌ったが、落ちかけた口紅などはそれ以上に嫌悪していた。





電車が発車するころにはすっかり座席も埋まり、立っている乗客も増えてくる。

私はバックから小さな英会話の本を取り出して読み始めた。





一駅、二駅…。

電車はいつものように進み、車内はだんだんと混み合って、息苦しくなっていく。

座っている私はまだ良い。

ぎゅうぎゅうに押しつぶされそうになりながら立っている乗客にとって、目の前で座っている乗客は羨ましいを通り越して、恨めしくなってくるほどではないだろうか?

そんな彼らの目線をそらしながらも、私の心の中はそわそわし始める。

毎日次の駅でいつも乗って来る男性。

人混みの中、いつもちらりとしか見ることができないのだが、その人を見ると、不思議ととても癒されるのだ。

艶やかな黒い髪をした男性。

暑い筈の外から乗車してきても、いつも涼しげな顔をしている。

耳にはいつもウォークマンのイヤホン。

スーツを着て、毎朝同じ電車に乗る所を見ると、彼の通勤にこの電車を利用しているのだろう。

切れ長の目の先はいつも乗客たちの頭の上を飛び越えて、窓の外へ向けられていた。




多分、会社のパートのおばさんに話したら、『いい目の保養があっていいわね。』
なんて言われることだろう。

まぁ…。実際そんな所だ。




彼の乗って来る駅に着き、扉が開く。

そして…。

私は思わずうつむいて、手に持っていた本に目線を移し、それを凝視する。

…彼は私のすぐ前に立ったのだ。




私の緊張をよそに電車は動き出し、そして、私は手に持った本の端を僅かに動かし、目の前の彼を見る。

当然のこと、顔を見れるはずもない。

私の目線の先にはちょうど彼の手があった。




…指輪はしていない。

そんな事を考えて、少しほっとした自分に呆れる。

だから何だと言うのだ。
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