企画用
□禁断の言葉を
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…夕暮れの執務室。
ここ数日の怒涛のような忙しさからやっと抜け出し、今日は少しは早めに帰れそうだった。
「中尉。…書類が出来たぞ。チェックしてくれないか?」
私の声は執務室に響いた。
今まで忙しくて騒然としていたせいだろう、やけに部屋が静かに感じる。
自分のデスクで仕事をしていた中尉は顔を上げて私を見た。
そして立ち上がり、私のデスクの前まで歩み寄る。
「申し訳ありません。大佐の声がよく聞き取れなかったので、もう一度言ってもらってもよろしいでしょうか?」
気難しく眉を寄せたまま、彼女は言う。
「書類が出来たからチェックしてくれ。…と言ったんだ。…私の声は聞きとりづらいかね?」
「いいえ。大佐のせいではありません。…時々右の耳が聴こえづらくなることがあるんです。どうかお気になさらずに。」
彼女は気難しい顔のまま右の耳に手を当てた。
「…いつからだ?」
「随分前からですが、平常時はなんら支障はありません。ただ疲れると症状が顕著になることがあるんです。…ただの職業病です。」
銃火器専門の彼女は、どうしても銃声や爆発音を至近距離で耳にすることも多い。
音響外傷か。
耳鳴りや、酷いと目眩等も伴うというが…。
いとも当たり前のように職業病だと言う彼女。
いつもの罪悪感は私の心を苛む。
…以前彼女は普通の女の子だったのだ。
それを…、音響外傷をただの職業病だと?
…そして彼女をそうさせたのは他でもない私なのだ。
「…ここ最近特に忙しかったからな。気付いてやれなくてすまなかった。」
「疲れているのは、大佐も皆も同じです。」
彼女は特別扱いを嫌う。
…彼女の眉が更に寄せられ、ますます気難しい顔になる。
医者にかかっているのかと尋ねると、
「勿論。…でも本当に大したことはないのです。」
と彼女は言った。
「中尉。ちょっとこっちへ来てくれないか?」
私がそう言うと、中尉は私のデスクを回り込んで、椅子に座る私のすぐ横に来た。
「何ですか?」
「どの程度聞こえないのかが知りたい。…耳を貸せ。」
「はい。」
彼女は右耳を私に向ける。
彼女のうなじは細く、彼女の耳は白くて薄い。
細い血管が透けて見えた。
軟骨は繊細な形を造っていたし、小さな耳の穴はあろうことか微かに性的な欲望を感じさせる。
そんな欲求を無視しながら、私は彼女の右の耳元で指を軽く擦り合わせてみる。
「…何か聞こえるか?」
「…聞こえません。」
「では。」
次に何ともない筈の左の耳元で同じ事をする。
彼女は真面目に答える。
…が、気難しい表情が少し解けた。
「聞こえます。」
「ふむ。」
次は右耳の近くで、軽くパチンと指を鳴らした。
「それなら聞こえます。…というか、左の耳にも音が届きます。」
「成程な。」
「もうよろしいですか?」
「最後にもう一つ。」
私はそう言って彼女を引き寄せ、右の耳元で囁いた。
「あ…………るよ。」
この気持ちが彼女に届かないように細心の注意を払いながら。
ずっと口にしたかった言葉を。
…私と共に軍人であることを選んでくれた君に。
「……?聞こえませんでした。何とおっしゃったんですか?」
彼女の真面目な顔。
ああ良かった。
届いていない。
私は彼女に笑ってみせた。
「いいんだ。…もういい。少し休め。」
そう言うと、彼女は珍しく素直に頷いた。
「はい。ありがとうございます。」
―――…時には決して届いてはならない思いを、口にしたくなる事がある。
『禁断の言葉を』
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