T
□grievous cries
1ページ/1ページ
――また、だ。
ガチャリと開いた自室のドアに振り返り、お帰りなさいと口にする。けれどラビはドアの前で立ち止まったまま下を向いて何も言わない。
いつもならニカッと人懐っこい笑みを浮かべてただいま、と返してくれるのに。訝しんでラビ、と声を掛けるともどかしいくらいにゆっくりと顔が上げられた。
「…ッ……」
その瞳に、息が詰まる。下ろされた髪の隙間から何の感情も映さないガラスのような瞳を垣間見て身体が凍りついた。
――また、だ。ラビが、怖い。
ふらふらと虚空を彷徨っていた虚ろな目が、ふと僕を捉えてぴたりと止まる。次の瞬間、飢えた獣のような鋭い光が宿り、深い緑が怪しくギラついた。
背筋がスッと冷えていくのが分かる。できることなら今すぐこの場から逃げ出してしまいたい。
――でも、だめだ。
手のひらをぎゅっと握り締め、後ずさりそうになる足を叱咤して真っ直ぐラビを見返した。
時折、こうしてラビが変わってしまうことがあった。ごく僅かな回数でしかないけれど、決まっていつもブックマンに呼び出されたあとに。
今日もたまたま重なった非番を僕の部屋で一緒に過ごしていたらゴーレムに連絡が入った。
ジジイからさ、ちょっと行ってくる、そう言って出て行ったラビの後ろ姿を何の不安もなく見送った。
けれど、今日は『その日』だったらしい。
「んッ……ラビ…」
ゆらゆらと近付いてきたラビが何の躊躇いもなく僕の首筋に牙を立てる。痛む肩に顔を歪め、潰される肉に溢れそうになる悲鳴を必死で噛み殺した。
骨が軋む程の抱擁にもはや愛はなく、それでも締め付けられる腕を無理やり動かしてラビの背中を宥めるように優しく撫でる。何度も、何度も。いつも僕を守ってくれる広い背中は、今はひどく小さく感じられた。
「………っ…」
「大丈夫です、ラビ…」
何が大丈夫なのかは自分でも分からなかった。けれど大丈夫、大丈夫と繰り返してその背中を撫で続ける。容赦のない牙が骨を挟むと肉を押し潰されるのとはまた別の硬質なもの同士がゴリゴリと削りあうような痛みが伴う。
けれど、これくらい。
酷い時は抵抗もままならないまま無理に犯されたこともあった。力尽くで押し倒され服を破かれ、ろくに慣らしもしないまま突き込まれた。身体を引き裂かれるような痛みが全身を駆け抜けて、喉が切れてしまうのではないかと錯覚する程の悲鳴を上げた。
それでもラビはひたすら己の欲望を満たす為だけに、底冷えするような感情の欠片もない瞳のまま時折残酷な笑みすら浮かべて動き続けた。
自分の姿をどこにも映さない暗く沈んだ緑の瞳に何よりも傷付いた。
――それでも、
拒む、という選択肢は元から存在しない。もし僕が今ラビを拒んでしまったら、ラビは何処に行けばいいのだろう。ラビの抱える重荷、痛みを誰が分かってあげられるというのだろう。
分厚い仮面を被って、いつもヘラヘラと器用に笑ってしまう彼の本当の姿を。
「ここに、いますよ」
これだけのことしかできない自分がもどかしい。きっとブックマンから何か諭されたのだろうという憶測はつく。
裏歴史を記録する者。
そう言ってしまえば簡単だけれど、古来よりその立場を維持してきた『ブックマン』には様々な掟があるに違いない。そうでなければ今まで歴史の裏に在り続けることなどできなかっただろう。
存続させる為の掟。それを守り引き継いでいくだけの覚悟と重荷。それを歴代のブックマン達は背負ってきたんだ。
――その全てを、ラビはいつか継ぐことになる。
「……ラビっ…」
気が付くと腕の力は随分と和らいでいた。背中を撫でていた手を止めて自分もラビにしがみ付く。あとどれくらい共にいれるのだろう。
『何があったんですか?』
そう聞いてしまえたら、どんなに楽だったろうか。
何があったのラビ?
そんな顔してどうしたの?
僕にできることは?
けれど聞くことは許されない。頭のどこかで分かっていた。せり上がる言葉を飲み干して、ゆっくりと離れていく腕に顔を上げる。
「アレン…っ、オレ、また……」
「いいんですよ」
そこにはいつもの翡翠があった。
――おかえりなさい、ラビ。
僕が貴方の、帰る場所になる。
fin. 20110204