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□rabbi
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耐えることと諦めることに慣れすぎたこの身体。世界の最下層で泥に塗れるような日々を送ってきた。




(――ああ、)

ふと足を止めて廊下の窓から外を見遣る。
灰色に淀んだ低い空。遠景は白く霞み、ここが霧の都と呼ばれるのも頷ける。郊外に位置するこの屋敷とて、例外なく濃霧に包まれていた。

――似てる。

そっと磨き上げられた曇りひとつないガラスに指を添えて意味もなくそう思った。自分に、似ている。どう足掻こうと純白にはなれないのだ。永遠に重たく冷たく暗いまま、一生を終えるのだろう。

 チリン

「…いけない」

どうやら物思いに更けすぎたようだ。急かすように再び聞こえた呼び鈴の音にはっと窓から身を離して、赤い絨毯の敷かれた廊下を進む。
行きたくない訳じゃない。だからと言って行きたい訳でもなかった。いつも心に付き纏うのは虚無。
コツコツと靴音を響かせながら主の待つ場所を目指す。一際豪奢な両開きの扉の向こう。

そこに、彼はいる。

「失礼します」

ノックも返事を待つ必要もない。主人はまどろっこしいことを嫌う。この屋敷に仕えることになった当初、呼ばれた時はすぐに入って来いと言い渡されていた。キィ、と重々しい音を立てて扉が開く。

「お呼びですか」
「ちっと遅いさ。何してた?」

薄暗い部屋の最奥にいつも通りその人はいた。大きな椅子にゆったりと身を預け長い足を組んでいる。手前の机にはいくつもの書物が並べられていた。

「何してた?」
「っ……」

鋭い視線に射抜かれて何か言わなければと思うけれど言葉にならず俯く。ただぼおっとしていただけだと言ってもきっとこの人は納得しないだろう。

「申し訳ありません」

目を合わせないまま深々と頭を下げるとつまらなそうな顔をして溜め息を吐かれた。どうやらこれ以上追求するつもりはないらしくほっと胸を撫で下ろす。頭を上げて今度はきちんと目を合わせて口を開いた。

「ご用件は何でしょうか、ラビ」
「ああ」

――ラビ。

この屋敷の主人であり自身の雇主。若くして家の全てを引き継ぎ、先代の残した莫大な財産と特有の『職業』を展開させ着実に富を築いている。

郊外にひっそりと佇むこの屋敷も、よく見れば庭も外壁も細部まで手入れが行き届いていた。主人はあまり屋敷に人を置きたがらないから、ここにいる使用人は自分だけ。けれど定期的に訪れるメイドや職人たちの手によって屋敷は常に最善の状態に保たれていた。
内装も取り立てて華美ではないけれど、一目で一流と分かるもので品よく纏められている。

それでも、この屋敷の持つ重苦しく侘しい雰囲気に、繁栄という色は窺えない。どこか不穏な影さえ見え隠れする。
それでいい。目立つわけには、いかないのだから。

「お仕事のことでしょうか?ご来客の準備を」
「いいや、ブックマンは関係ない」
「そう、ですか。では?」
「呼んだだけさ」

アレン、と優しく微笑まれてまたか、と思いつつもただそれに従い歩み寄る。時々あるのだ。初めは無意味な呼び出しに戸惑い、何でもないと言われる度に首を傾げたが今となってはそれもなくなった。

「おいで」

組んでいた足を元に戻して膝の上に座るように促される。足を開いてゆっくりと跨がると満足そうに抱き竦められる。

「アレン」

名前を、呼ばれる度につくづく犬のような名だと思う。この人に付けてもらった名前。それまでは何と呼ばれていたか――。


確か、この左腕。生まれた時から焼け爛れたように皮膚には皺が寄り人とは思えない色に変色していたため、侮蔑を込めて〈赤腕〉と呼ばれていた。
親の記憶はない。どうせすぐに捨てられたのだろう。物心ついた時には謂れのない借金をかけられていてた。その日を生きるだけで精一杯だというのに、金は稼いだ側から巻き上げられた。

食べるものも着るものも、寝ることすらままならない生活。必然的に体力も注意力も衰え、仕事ではいつでも失敗ばかりしていた。その度に殴られ、意識がなくなる。

新しい『ラビ』に拾われたのは、まさにそうなろうとしていた瞬間だった。裏口から薄汚れた路地に投げ出され、前の『ラビ』に今日も失敗かと罵られながら拳を振り下ろされる。今日はどれぐらい続くのだろうと絶望の中で考えていたら、次の瞬間、目の前の男が蹴り飛ばされた。

『なーにしてんのオッサン。ところでそいついくら?』

頭上から降り注ぐ声。状況を飲み込めないまま呆然と顔を上げると、そこに身なりのいい赤い髪をした男が立っていた。

その日から彼は、僕のラビ。





「なあアレン」
「…?」
「どうして世界は争いばかりなんだろうな」

人の身体をまさぐりながら、この人は突然何を言い出すのだろうか。そんなこと、僕に分かるはずもなかったけれど一つだけ思うことはあった。

「…だからこそ」
「なんさ?」
「貴方の生業が意味を成すんじゃないですか」

そう言って目の前にある眼帯に指を沿わせた。この下にある右目は全てを見通す。世界も、嘘も、全て。

彼を含む彼の一族は特別、もしくは異常なのだと仕えてすぐそう思った。
数多の書物を読み漁り蓄えられた膨大な知識。驚異的な記憶力と分析力。代々受け継がれてきた智見。それらを余すことなく使いこなす頭脳。

所詮は繰り返される人の歴史。その時代の流れを、彼らは見通すことができた。常に第三者の立場から、私情を含まず『傍観』という形で。

知識は情報を明確に捉え、情報は新たな知識を彼らの元に舞い込ませた。積もり、引き継がれてゆく『知』
次第にそれは価値あるものとして見なされ、それに基づく彼らの助言もまた、莫大な金を呼んだ。

世界に起こりうる様々な争い。それに悩み苦しむ人々。それを食い物に生きる"裏世界の情報屋"

それが彼ら一族。


『ブックマン』


過去には王の参謀として、はたまた予言者として世界に巣食っていたと聞かされた時はさすが目を丸くした。情報屋としてこの地に根付いたのはつい最近だという。

欲にまみれた上級貴族や軍事関係者、はたまた異国の密売人。そういった彼の知識を求める客人が時折この屋敷にも訪れる。人種も性別も関係ない。相手の話す言葉に合わせて数え切れない程の言語を操る彼にただ異常を感じた。

「ハハその通りさ」
「食いっぱぐれるのはもう嫌ですよ」
「ダイジョーブ。争いはなくならない」

からからと笑うラビにつられて小さく笑った。例えブックマンとしてやっていけなくなってもアレンを養うくらいは稼いで見せるさ、と額にキスを落とされる。ああ、ここは今まで暮らしたどこよりも心地いい。

だからこそ、不安になる。

「捨てないで、ラビ…」

腕を持ち上げゆっくりと彼の首に縋り付く。身を乗り出すとカチャリと冷たい音がした。首に付けられた枷が、僅かにずれた音だった。

これは、首輪。

地下の書庫に収められたおびただしい数の本のように、僕も彼の所有物。

彼が僕の『ラビ』である証。

「当たり前さ。絶対に、何があっても離さない」

そう言われて自分は心底幸せだと思った。

「永遠に一緒さ、アレン」

この冷たく暗い屋敷で、ひっそりと哀れな客人を待って。


「Yes,my rabbi」


ラビ、僕のラビ。

共に永遠を過ごそう。












【rabbi】

ヘブライ語で「我が主人」の意。












fin. 20110316

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