章用 DRRR

□三
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「四木の姉さん、お出掛けで?」
「ああ、粟楠の旦那が見えたからな。今日は歌舞伎に連れてって下するんだと」
「羨ましいなあ」
黒髪の振袖太夫は姉女郎をこの世で一番恵まれている女を見るように羨み、その下駄を用意した。この物語の大筋においては関係ないが、この少女の名を臨也と言う。


ちょっと生意気で口の悪いところが良いと、その妓を抱いた男は口を揃えて言う。だがそれだけじゃない、とも言う。妓としての手管が極上、忘れられない良さなんだと。
彼女は誰そと問われれば既に聞き覚えのある妓。先日青崎の口に上った太夫風本その人である。
ちょっと蛙に似てないかいと赤林は思うのだが、青崎には聞こえない。筋骨隆々の青鬼は囚われの蝶に骨抜きなのだ。
自分の指に止まらせたいばかりに、他の男に抱かれてくれるなと頼んで一蹴されたらしいと聞いたことがある。風本は未だ金の為に身を売っているが、今じゃ天下に轟くおしどり夫婦。請け出すこともできないのに陰から夫婦と呼んでやるのが吉原の情けである。
その憐れで阿呆のおしどり夫婦が。
「今度風本に逢いに行くんだ。どうだ赤林、てめえも来ねえか?」
「この俺を誘うなんてお前さん、余程友達がいないんだねえ」
しみじみ呟いた赤林に青崎は気を悪くした。もういいと背を向けたところで声をかける。
「おいちゃんでいいなら行きますよー」
クイ、と振り向く青崎。笑いかける。
「止めとくかい?」
「…いや、いい」
溜め息をついた彼は仕方なさそうに告げた。
「今夜暮れ六つに例の見世だ」



「青崎さま。酌は如何です」
「今はいい」
「ふーん」
可愛らしい花魁と仲睦まじく寄り添った青崎は普段の強面をどこへやら。顔を赤くしてどこの小娘かと禿にさえ笑われる始末。そんな男の姿を笑いつつも愛しそうに見る女。果てしなく幸せな一夜の夢は宴の騒ぎに囲まれる。紙花舞って絢爛。お大尽にでもなったかのような同僚を盃ついでに見つめ微笑む。ああ羨ましい恨めしい。空になった盃を見つけて妓が酒を注いでくれた。ありがとよ。主賓にすっかり忘れ去られた客人は居心地の悪い他人の夢の中、朝の到来だけを待つのだった。もう一杯。
「兄さん、もし」
程良く酒が回ったと思っていたら後ろから誰かの声がする。着物の後ろ襟を引っ張られてあっと言う間に目の前の襖を閉められる。気付くといるのは隣の部屋。どんちゃん騒ぎの広間から一枚隔てた座敷に引っ張り込まれたらしい。こんな悪戯をするのはどこのどいつか。思い付いた誰かではないように願いつつ振り向くと、やはり勘が当たっていた。
「…何か御用かい、四木さん」
今日もまた変わらず美しい四木が少し唇を歪めて微笑んでいた。
「特に用は。あなたの姿が見えたので」
何故にこんな真似を。息苦しい宴の場から放された有り難さは忘れていないがなんにしても四木の行動は気になるところ。引っ張りついでに握られた手の柔らかさが心の臓に悪い。
「青崎さまの宴に出るなんて、良いんですか?」
「良いわけない」
愚痴を述べようとすると突如目の前の襖が開かれて一人の妓が入ってきた。おや、さっきお酌をしてくれた。
「姉さん、帰ってきてたんですか。なら言ってくれればいいのに」
「黙っときな。他にはまだ言うんじゃないよ」
「女将が怒りますもんねえ。だってあの旦那は」
「しっ!」
慌てて妹分の口をふさぐ。うっかり者の彼女は姉に無理矢理黙らされて目の前の赤林を上から下まで眺める。そうしてニヤリと笑った後、天然のように謝り始めたのである。
「臨也!もういいからあんたは隣へ戻んな」
当然だが一人前の女郎のような四木を見てなんとなく感心を覚える。小娘を見送り、先程の会話を露程にも気にかけていないように言葉を紡ぐ。
「綺麗な子だったねえ」
「困り者ですよ、あの子は」
険しい顔で彼女の去った方を見つめる。残り香が少々鼻につく。見るからにややこしい性格をしていそうな少女だったが四木との仲は悪くなさそうなので良し。淑やかな指先にまだ触れたままだったと思い出し、そっと自分の手を除ける。なにか違和感があった。
白い左手にはひとつ欠けたところがある。まじまじと眺めてしまう。
「ねえ四木さん」
「なんです」
「なんで小指がないんだい?」
「おや、吉原の戯れをご存じないんですか?」
野暮な質問だったか。口に上った問いを悔やんで訂正しようとするも残念ながら四木が答えを掲げる方が早かった。
「昔、惚れた男の気を引くためにすっぱり切り落としました」
そう言って花魁は試すように笑った、妖し。
「って言ったら赤林さんは私に心が動きますか?」
「へ?冗談だったのかい」
悪戯に彼女は左手を掲げた。
「誠です」
青い恋の話ですと四木は懐かしそうに呟いた。
「客の前で恋の話なんてしていいのかい?」
「今は客じゃあないじゃないですか。それとも何、おあしを頂けるんですか?」
「いやいや一切百文なんて、おいちゃんがここに売られる羽目になっちまう」
「金持ちの癖に。赤林さんこそ、なんで右目がないんです?」
「バレてた?」
派手な色眼鏡を小指でさっと外し、偽物の右目を晒す。
「昔、惚れた女にあげちゃってねえ」
「お互い様ですか」
乾いた笑い声を上げる客でも恋人でもない二人。どこか欠けた者同士という共通項に腰掛けて、友人にでも妥協しようか。
恋をしたことがある。右目に走った恋の衝撃を自分は一生忘れない。それはこの妓も同じだろう。想いと引き換えになくしたものを己を見る度に想い出す。彼女は辛くないのだろうか。
「赤林さまー、赤林さまー」
障子の向こうで少女の高い声がする。
「あれ?どこに行ったんでしょ。御手水?」
どうやら自分を探しているらしい。四木を省みると行ってくださいと彼女は促した。お忍びで帰ってきたらしい四木を連れていくのも良くないだろうと一人障子を開いた。
「じゃあ、またいつか」
「ええ。左様なら」
次は来世でお会いしましょう、なんてここ吉原じゃ笑えない、でも真実かもしれない別れの言葉を胸の内で呟き赤林は騒宴の中に帰っていった。



「どこに行ってらしたんです?青崎の旦那が心配なさっていらしたざますよ」
「すまないねえ。ちょっと厠へさ」
嘘つきの花魁を見る。あの人は自分の恋女房に夢中で間に合わせのお供なんてまるで目じゃないのさ。ねえ?今でもあんなに幸せそうだ。人目があるというのに二人は唇を寄せ合っている。嫉妬で死んでしまいそうだ。
「知ってる?風本太夫は身請けされることになったそうよ」
「へえ、誰に?」
「決まってるじゃない、旦那様よ。青崎様よ」
席の隅で芸妓が噂話をしている。本当かい?となりふり構わず乗り込んだら小娘たちは少し驚いた挙げ句、確かな筋だと口を揃えた。
「風本太夫、羨ましいわね」
「本当に。貴賤がない分、外の女より幸せじゃない」
小鳥のようにさえずりつづける芸妓たちをおいて赤林はへなへなと座り込んだ。近くの花魁に飲み過ぎたから帰る旨を伝えて赤林は見世を出た。
春の風は快い。確かに酔った頭は平衡感覚を失って、膝から崩れ落ちそうだ。
もう駄目だと思った。俺が愛しているあの人は違う女を好きになって幸せを掴んだ。勝ち目なんかはなからありゃしなかったが。夢を夢だと思えていなかったのだ。青崎が好きだった。
良い匂いのする春風に涙を誘われて。
この想いを手放そうと思った。左目を捧ぐ代わりに小指でも贈ろうかと思ったら自分にはないことに気付いた。ああ、道元親父に拾われたときにケジメとして落としたんだっけ。
惨めだ、惨め。ひとしきり泣いて赤鬼は青崎への想いを捨てた。



「ああ青崎さん。昨日勝手に帰っちまってごめん」
「ったくてめえはよお…」
「ねえ、青崎さん。俺ああんたを好きでいるのを止めたよ」
「…そうか。そりゃ良かった。こんな親爺に好かれてたなんて気色悪くてなんねえ」
「酷いねえ。そのうち酒の肴ぐらいにはなるんじゃないかい」
「てめえが肴だなんてどんな酒でも不味くならあ」
「幸せになりなよ」
「…言われなくても分かってる」







――――――
先生、風本君の口調がわかりません!

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