章用 DRRR

□五
1ページ/1ページ

色眼鏡が割れた。義眼隠しに有用で愛着のあった偏屈眼鏡が天寿を全うしたのは持ち主として寂しくもある。色眼鏡がないとどうにも気持ち悪くてならないので代替えを探しに行くとしようか。その前に、大事な色眼鏡を割ってでも逃げようとした不届き者を痛め付けて相棒の仇をとってから。
しかし色眼鏡を売る商人なんて赤林には心当たりがない。当代だった眼鏡も人からの貰い物だし。されど天下の江戸ならないものはない。広い将軍のお膝元なら色眼鏡の一つや二つなら簡単に手に入るだろう。暇な皐月の一時を眼鏡探しに費やすとして、適当な店をさ迷うとした。
何川か名前は知らないが活気ある町の側を流れるのどかな川の沿いを歩いて散歩気分を味わうには良い日和かな。幹彌と四木が消えた夜の黒い靄が姿を消す。腕の良い細工師の噂でも聞こうと高級そうな品が立ち並ぶ骨董品の店に寄った。
店番をしていたのはおかっぱ頭の愛らしい少女だった。笑顔で団子でも売っているのが相応しい齢だがその物腰はおどおどとしてどうにも頼りない。
「お嬢ちゃん。ちょっと訪ねたいことがあるんだけど」
「はい…」
店番の少女は胸だけやたら肉付きが良いのでこりゃあ目の毒だと慌てて目を逸らす。だが視界にちらつく黒髪が何か懐かしい記憶を呼び起こそうとしていた。見上げた店の看板は園原堂と書かれている。
こちらを伺う上目遣いの黒い瞳に刹那、紅が閃く。
「お嬢ちゃん!名前は!?」
「あ、杏里ですけど…」
「お母さんの名前は?」
「お母さん?」
「沙也香、って言うんじゃないかい?」
なんで知ってるの、と言いたげに少女杏里は首を縦に振る。
園原沙也香。なくした右目に熱い痛みが蘇る。かつてこの目を刺し抜いた衝撃が十年の時を越え、なお鮮やかに現れた。
「そうかそうか…。沙也香さんの娘か」
「あの…母の知り合いですか?」
亡くなった母の名を呼ぶ男の出現を不審に思ったのか、赤林を見る目が怪訝に変わる。
「ああ。おいちゃんは昔、お嬢ちゃんのお母さんが好きだったんだ」
簡潔明快な赤林の言葉に少々度肝を抜かれたらしく、一周回って素直な少女の顔が見れた。
「お母さんが好きだった?」
「ああ。いい女だったからねえ」
昔の母の色香を誉められ気まずそうにうつむく杏里が急に親しく見えて赤林は滑らかな黒髪を撫でる。
「杏里ちゃん。ちょっとお話しないかい?」



愛嬌のある信楽焼の横に座って杏里に葛切りを振る舞う。偶々甘味売りが通りがかって良かった。
「それは大変だったねえ」
彼女の娘がどうやって生きてきたのか。難所続きの人生を労うように赤林はそう言った。
寡黙な性質であるらしい杏里は何も答えずに甘味を頬張る。
愛していた女の娘の隣に座っているというのはなかなか愉快な気分だった。たとえば、店の奥から沙也香がひょっこり顔を出して「あなた、店番中に葛切りなんて食べないでちょうだい」とでも言いそうな空虚がここにはあった。決して訪れることのない小さな幸せ。
中途半端な形で幕を下ろされた愛は完全に消されることなく赤林の体のどこかで眠っている。でも、あの人は死んだのだ。
俺は人を好きになると尾を引くタイプなのかもしれないと、黒蜜を味わいながら結論付けた。杏里がポツリと呟く。
「赤林さんは色眼鏡を探してるんでしたっけ」
「ん?ああ、そうだ。忘れてた。杏里ちゃん腕の立つギヤマン細工師に心当たりはあるかい?」
「すいません。職人は知らないんですけど…」
杏里は申し訳なさそうに言うと店の奥に引っ込んでごそこそとやっている。
「あの、古い品で良ければこんなのあります」
小さな手のひらが差し出したのは古いが美しい赤ギヤマンの色眼鏡。さして審美眼の鋭くない赤林が思わず溜め息を漏らす程度に素晴らしい逸品だった。
「こりゃあ良い…」
手にとって鼻に載せてみても掛け心地は悪くない。赤いギヤマン越しに見た世界は神秘的で赤林はそそられた。
「貰うよ。いくらだい?」
「お代はいいです。母にも父にも線香をあげてくれた人は久しぶりなので」
「いやいやお嬢ちゃんの飯の種だ。ただって訳にゃいかないよ」
「じゃあさっきの葛切り代ってことでいいです。とても美味しかったので」
立派に笑みを浮かべてみせた彼女は案外抜け目のない御方なのかもしれないと頭を下げるに留めておいた。無駄に貯まった金子を暮らしの助けに渡そうかとも思ったが、逆に杏里を傷付けることになりそうなので止めておくのが賢明らしい。
「ありがとよ。恩に着る。杏里ちゃんも困ったことがあったらおいちゃんに言いな。なんでもしてやるからよ」
「ありがとうございます…」
することも会話もなくなり後は甘味を片付けるだけ。店先に並んで葛切りを貪る男と少女の組み合わせを不思議そうに見て町人たちが歩いていった。ふと隣を見る。母とは少し趣の違う愛らしさとそっくりな髪があった。
少女はさじを動かす手も止めて一心に遠くを見つめている。何かを、誰かを待っているのだろうかと赤林は聞いてみる。すると少女はこう言った。
「好きな人を待ってるんです」
さっき知り合ったばかりかつ歳が三十も離れている男に言う話ではないと思うが、杏里の表情は明るい。恋をする乙女のなんともいとおしそうな顔だった。
早く来てやんなよ、杏里ちゃんの好い人。早くこの娘を幸せにしてやんなよ。
「あっ帝人くん!」
「園原さん!ごめん!遅くなって!」
見るからに優しそうな少年が、両手に葛切りを抱えて園原堂に走り寄った。杏里の横に座る男に不審の目を向けつつも、とにかく杏里めがけて走る。
あ、少年の目が杏里の持つ葛切りの器を向かう。少年が落ち込むかと思われた瞬間に杏里は食べかけの葛切りを捨て、少年の元に走り寄った。綺麗に微笑む。
「帝人くん。葛切りを買ってきてくれたんですか」
「え、ああ、うん」
少女の心遣いに気づいて少年は、一瞬誇らしそうに笑った。それから傍の杏里を見て、幸せそうに頬を緩めた。
そうか、恋とはそういうものだったか。
捨てられた哀れな葛切りの残りを赤林は拾う。母子ともにふられちゃったねえ。おどけたように呟いて自分の葛切りをかきこんだ。
どこまでも恋の甘さを示してくれている若い二人。赤林はその幸せに気付いた。同時に、二人に自分と誰かの姿が重なる。優しく笑う俺と寄り添う女。くっきりと輪郭が浮かび上がった訳でないが赤林はそれか誰なのかわかった。
青崎さんにふられてまだ二月弱なのに、俺も浮気性だねえ。

かつての熱い想いとは異なるけれども、心の臓の底に横たわる温かい流れは確かに恋の様子を呈していた。陽気な皐月に抱え込むにはちょっと熱すぎるぐらいの重さがこの上もなく快い。

あんたが好きだ、四木さん。





――――――
赤沙也については原作と同じ設定のつもりです。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ