創作短編◆
□窓猫さん
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ゼミ室の壁にかけた時計の針が動く。短針が九の数字をさした。
リカコはパソコンに顔を向けたままの友人に声をかける。
「チナミ、そろそろ帰らない?」
「んー、ちょっと待って。この文献の書き写しが終わったら帰る」
チナミはキーボードに指を走らせながら、手元に置いた分厚い文献の長い文に目を向ける。
ただのレポートといってしまえばそれだけだが、チナミが講義を受けている教授は採点に厳しいことで有名だった。
チナミはパソコンのディスプレイに表示された時刻を見て、
「リカコ、まだここ施錠されてないよね?」
「たぶん。でも十時には鍵かかっちゃうから、そろそろ帰る用意したほうがいいかも」
リカコが答える。
「自動施錠システムってなんかすごいけど閉じ込められたら嫌だね」
リカコとチナミが通う大学には全館を通じて自動施錠システムが設置されている。
時刻が午後十時になると鍵が閉まっていない部屋がコンピュータによって自動的にシャットダウンされていく。
レポートや課題提出前に部屋に残っていて閉じ込められたという体験をした学生も少なくない。
それゆえになるべく早く家に帰りたいわけだが、凝り性のチナミは今回もレポートに多大な時間を費やしている。
なかば呆れてチナミの横で作業を見ていたリカコは、ふと、
「ねぇ、『窓猫さん』って知ってる?」
「何それ?」
「先輩に聞いた話だからよく分かんないところもあるんだけど、遅くまで建物に残ってると『窓猫さん』がやってくるらしいの」
「へぇー。ホラーだね」
「『窓猫さん』は猫の形をしていて、夜遅くまで残って仕事をしている人を見てるらしいよ。
で、その人が油断したり寝たりしてると、いきなり窓から入ってきて襲われちゃうんだって。
『窓猫さん』はどんな壁でも簡単に登ることができるからどれだけ高いところにいるからって安心しちゃいけないんだって」
「…なにそれ怖い。やだ、なんか寒気してきた!や、やっぱりもう帰る!」
チナミが急いでパソコンの電源を落として荷物を持つ。
リカコも慌てて自分の荷物を手を伸ばして取る。
「ご、ごめんね。変な話して」
「いいってば。レポートの締切までもう少し時間あるし、明日頑張るよ」
チナミは笑いながら首をふる。
部屋の電気を消し、忘れ物がないか確認して鍵をかける。
この研究棟にはエレベーターがあるが、この時間だと節電のために稼動していないだろう。
そう判断して階段へ歩き出すと、
ガタッ
「…なんか、音しなかった?」
しん、とした廊下にリカコの声が響く。
ガタガタッ
「ちょ、いやだっ、何?」
「あっちからだ」
「待ってよ、リカコ!」
ひとりで歩き出したリカコをチナミが泣きそうな声を上げて追いかける。
教授の研究室群の前まで来ると、音がやんだ。
研究室の外には、暗証番号を押せば開く仕組みのボタンがついている。
「このへんだよね…?」
チナミが恐る恐るリカコに尋ねたとき、
ガタガタガタッ
と、ひとつの研究室の扉が振動した。
「何!?…まさか、窓猫さんじゃないよね!?」
「だとしたら窓から出てくると思うけど…」
「なんであんたはいつもそんなに冷静なのよ!?」
ガタガタガタガタと激しく叩かれ続ける扉。
意を決したリカコは扉に近づき、解錠のためのボタンを押した。
ギィ、と音がして、
「うわー!助かったー!」
「き、清村先生?」
目の前にひょろりとした男が転がり出てきた。
「おー、柴田と杉峰じゃないか」
「おー、じゃないですよ!どうしたんですか?」
チナミが清村に尋ねる。
「いやー、施錠システムに引っかかって閉じ込められてしまったんだ、これが。困った困ったー。柴田も気をつけろよ」
「驚かさないでくださいよ…。せめて声くらい出してください」
「鍵をあけてくれたのは杉峰だったな。悪い!施錠システムと一緒に部屋の電気が落とされてしまったんだ。
びっくりしすぎて声が全然出なくてなぁ」
はっはっはっ、と清村は細い体に似合わず豪快に笑う。
「もぉ、先生ってば…」
チナミとリカコは苦笑いを浮かべて清村の言葉を聞いていた。
彼らは全く気付いていなかった。
研究室の窓の外に黒い影があることを。
…ガシャン
『にゃあー』
end
20101003