創作短編◆

□視界線
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僕は、モノが見えない。

正確に言うと「モノの線」が見えない。
モノの形は分かるけれど、いわゆる「境界線」というものがよく分からない。
だから景色を見ていると水の中で目を開いたみたいにぼんやりとした映像しか見えない。
その代わりといっていいものか分からないけれど、「色」だけは妙にハッキリと理解できる。
赤色は激しい「赤」、紫色は生粋なる「紫」、黒色は紛れもない「黒」として認識できる。

これが病気なのかは僕には分からない。
今年で13歳になるけど、生まれたときから続いているそれが先天性の何かであることは知っている。
それに、これを疾患しなかった妹と何かが根本的に違うことも分かっている。
でも困ったことはないし、困ったと思うこともない。

「クロロ」
「はい」

僕はヤギュカさんに呼ばれて椅子から立ち上がる。

「今から1時間、いいね?」
「はい」

そう答えたものの、やはり僕にはヤギュカさんの姿がよく分からない。
真っ青の床に真っ青の壁。ベッドは白で、窓枠も白で。ゴミ箱は薄い赤で電球は煌々と光るオレンジ。
まるで複雑な空の中に放り投げられたみたいな部屋。
ここで僕は暮らしている。
ずっとずっと、長い間暮らしている。










僕はヤギュカさんの研究室の中に映される映像フィルムを次々と見ていた。
そしてその映像がどんなものであるのか、自分が理解できる範囲で説明していく。

もちろん僕が見えるのは曖昧な輪郭と色くらいだ。
それを身振り手振りを交えながら内容を説明する。
制限時間はなく、僕が「以上です」と言えば次のフィルムが映し出される。
この「実験」は僕がここに来たときからずっと続いている。
小さい頃は語彙力もなかったし人に説明することなんて全然できなかった。
でも、長年続けていくうちになんとか自分の思っていることや考えていること、そして見ていることを伝えられるようになった。
色の表現もヤギュカさんに教えてもらって、線が見えないから言葉で理解するしかなかった。
ヤギュカさんは僕の見ている世界を「小さい子どもが何も考えず絵の具を塗っただけの世界」と表現していた。

フィルムを見たあと、ヤギュカさんは答えを教えてくれる。
僕にとっての「色」の部分を指差して、これが家の屋根、あれが風車塔の羽根部分、といった解説をしてくれる。
それを聞いて、僕はなるほどという顔をしているが、正直なところあまり聞く気はない。
僕がそういったことを知ってもここから外には出て見る機会もない。
第一、僕には「線」が見えないから本当の理解ができない。

でも、別に不自由はしていない。

僕にとってヤギュカさんの解説が一番の楽しみだからだ。
「理解はできなくとも、分かろうとする気持ちが大切だ」とヤギュカさんはいつも言っている。
今の僕の世界には、あの空に溶け込んだような部屋とヤギュカさんがいる。

僕はヤギュカさんが一体どんな人なのか、それ以前に男であるのか女であるのかも分からない。
声は男の人にしては高く、女の人にしては低い声質をしているせいで、それだけでは判断できない。
普通なら顔を見ればいいんだろうけど、僕が見ると輪郭がぼやけて見えるので肌色の平面しか見えない。髪の色が銀色だということは分かるんだけど。





「よし、今日のは終わり。お疲れさま」
「ありがとうございました」

僕はヤギュカさんがいるであろう方向にお辞儀をする。
研究室は白に近い乳白色で、ヤギュカさんは全身を包む白衣を着ている。だからヤギュカいる場所が上手く把握できない時がある。

「そう言えば、クロロは今何歳だったかな」

いつもは絵を見た感想や結果しか言わないヤギュカさんがそんなことを言った。
僕は少し驚いて服の裾を握った。

「じゅ……13歳です」
「ここに来て何年かな」
「6年か7年くらいです」
「最近、妹とはいつ会った?」
「2週間くらい前です」

変だな、と思った。
僕の行動はヤギュカさんが全部管理しているし、色や線以外のことをこんなに聞かれたのは初めてだった。

「分かった」

何が、と問う暇もなくヤギュカさんは僕の肩に手を置いて僕を部屋へと連れ帰った。
僕ひとりだとどこで転ぶか分からないし、周囲の様子を見て場所の判断が困難だからだ。
扉に鍵をかける前、ヤギュカさんが僕を見て言う。

「クロロ、治るかもしれないよ」
「え?」
「目」
「……うそ」
「嘘じゃない」

あっさりと告げられた事実に僕は口を開けて呆然とした。
治る?境界線の分からないこれが?本当に?

「……なんでそれが?」
「テストをしていくうちにその傾向が出始めたんだ。膨大な時間と研究が必要だったけど、たぶん確実だよ」

僕は自分自身でもまだそんなこと感じられなかったけど、ぼんやりと見えるヤギュカさんが笑った気がした。










「……もしもし、ヤギュカです。クロロの話ですが、恐らく確実かと。……皮肉なものですね。彼は治るのに彼の妹が発症するなんて。しかも、後天性だとクロロと違って治る見込みはないんですから」



end

20110812


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