創作短編◆

□傷跡バレンティ
1ページ/2ページ




ちょうど1週間前、松原は彼氏にフラれた。

よりにもよってバレンタインの前に別れを切り出された。
きっと向こうとの相性が合わなかったことが原因だと松原は推測する。
理由を聞くこともなく「分かった。じゃあね」と、さっぱりしているとも無慈悲とも取れる態度で彼と別れた。
その言葉を聞いた彼はどこかショックを受けたような顔をしていた。
自分から振っておいてそんな顔すんじゃねぇ、と口汚い文句が松原の唇から溢れそうになった。
でも、そんなことを言えば松原が悪者に成り代わってしまう。

情けない顔をした男に、同情の意味を込めて「今までありがとう」とだけ告げたのが遠い昔のようだ。





大学の講義を終え、サークルも顔を出さずに松原はぶらぶらと街を歩く。
製菓店のチョコ売り場から、店員のお兄さんがかわいらしくラッピングされた包みを見せてきた。

「おねーさん、よかったら買っててー」

ショーウィンドーの中には見るからに甘そうな砂糖菓子のきらめきたち。
誰かに贈られることを前提としたそれは、今の彼女にとってあまりにも残酷で。
松原は曖昧な笑みを浮かべる。
店員に悪気はないだろうが、松原の中には言い様のない炎が燻っていた。
誰もが幸せだなんて誰が決めた。
たった1週間前に幸せを手放したばかりの女に甘い欠片は似合わない。

ごめんなさい、今はそんな気分じゃないの。

不思議そうな顔をする店員にそう告げて、松原は足早に店から立ち去った。
なんでもないように思えて、意外と引きずっていたのかもしれない。

鼻の奥が、つんとした。





日は傾いて、あたりはすっかり暗くなっていた。

マフラーが肩の上で揺れる。
松原の金糸がふわふわと寒風になびいた。
色が抜けることもなく丁寧にきらめく外国人のような透き通る金髪は、松原の心をも染めていく。
この色に髪を染めたのはいつだっただろう。7日前の恋人に会ったころか。もしくはそれよりも前か。
曖昧になる記憶はひゅうんと鳴る風に掻き消されていく。



大学を出てチョコレートの勧誘を断ってから、かなりの時間が経っていた。

駅前を通りかかったとき、バンドの路上ライブらしき演奏が聞こえてくる。
建物に背を預ける形で音を奏でる彼らを聴衆たちは半円を描くように眺めている。
芯の通ったかっこいい声で歌う彼は、この寒空の下でも元気に喉を震わせている。
耳に入るのはお決まりのような恋の歌。
傷口に染みるそれを、松原は何も言うことなく耳に入れていた。

「…さむっ」

呟きは歌声に掻き消されて誰の耳にも届かない。
ふと我に返ったときには、すでに演奏は終わっていた。
ボーカルの人が松原のような金髪をわしゃわしゃ掻き乱して頭を下げる。
松原の髪質は猫毛だが、彼はワックスで髪を立てているのでライオンのようなたてがみに見えた。
せっかくの演奏もまともに聴いてなくて悪かったな、とさすがに申し訳なく思った。

「あの、」

唐突に隣に立っていた男性が松原に声をかけた。

「ボーカルの人、きれいな髪ですよね。あれ、いい色ですよねー」

松原はいきなり話しかけられて目をぱちくりさせた。
男の視線の先には先ほど松原が見ていたボーカル。

「…そうですね」

目の前ではバンドのメンバーたちが次の曲の準備をしている。
松原も隣の男もそれをじっと見ている。お互い横は見ない。

「…なんか、曲も聴かずに髪色見てるなんて珍しいなーって思って声をかけてしまいました。迷惑だったらすみません」

次の曲のイントロが始まったとき、男がぽつりとこぼした。
全然知らない人に一線を引かれて言われた言葉が松原の傷にじわりと染みる。
男が前を向いたまま再びぽつりと呟いた。

「おねーさんさ、さっきうちの店来たでしょ?」

くるりと振り返った男の顔は、製菓店でチョコの包みを松原に見せてきた店員と同じ顔をしていた。
少し垂れた目が優しそうな印象を受ける。

「あ…」
「んー、やっぱりあの辛気くさそうなおねーさんか」

男は記憶を辿る顔をして失礼なことを吐く。
確かに松原の顔は辛気くさい以外の何者でもなかったが。

「しかしまさかここでお会いできるとは思ってませんでした。どうです?やっぱりチョコ買っていきません?」
「遠慮します」
「割り引きますんで」
「……いや、いいです」

一瞬だけ躊躇した松原は首を振る。
それを見て男は「そーですか」とあっさり身を引いた。
そして曖昧な顔をした松原を残して、ふいっと隣から姿を消した。

妙に寒々しくなった空間を眺めながら、松原は息を吐く。
白くなったそれは空中に淡く霧散していった。




次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ