創作短編◆

□至近距離チョコレーティング
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今日は休日じゃない。まごうことなき平日だ。
それはつまり日をまたいでバレンタインのチョコレート渡すことがない、ということ。
だから、今日渡せばそれはもう素晴らしい勝ち組になるんだ。
すでに夕方も過ぎて夜に突入したけどこのチャンスを逃せば今日はもう渡せない。
うう、ドキドキする。すごくドキドキする。

「…………伊野、何してんの」
「ぶ、部長!?」

休憩スペースの柱の陰から営業部の部屋を覗いていた私の後ろから部長が現れた。
おおおおおお驚かさないでくださいよ!びっくりしたじゃないですか!!
確かにコソコソしてる私も怪しいですけど!

「ほんとに何やってんの?すごく怪しいんだけど」
「いや、これは…その…」
「ほおー、通報してやろーか」
「やめてください!」

ささっとスマートフォンを取り出した部長に詰め寄る。
ぶんと奪い取って自分の背中へ手を回して隠す。フリック入力できないように設定してやろうか。
部長を睨む私に、彼は余裕の笑みで悪人面を晒す。

「おいおい、何やってんだ。なんだったら志賀にチョコレート渡してきてやろうか?」
「なっ……わ、私の目的分かってるんじゃないですか!」
「当たり前だ。そうでもないとお前がこんなにソワソワしてるわけねーだろ。ほれ、スマホ返せ」
「…………うぅ」
「仕方ねーなー、ちょっくら営業のとこまで遊びに―――」
「いやー!か、返しますから!ストップ!ストップ!」

私が部長のスーツを思いっきり引っ張ってスマートフォンを返すと、またにやりと笑われた。
この不気味、失礼、不敵な笑みにときめく女子社員も多いと聞くけど、まったくもってよく分からない。
確かに、まだ二十代後半で企画部の部長の座に就いたこの人はエリート街道まっしぐらだけど。
私が部長の歳になってもこの座につけるとは微塵も思ってないけど。

「っていうか、私の目的分かってて、わざわざいじってくる必要なんてないじゃないですか」
「んー、なんか後姿が面白かったからさ」

あっさりとそう言って、部長はけらけらと笑った。
なんかすごく馬鹿にされていると思う。くそう。
いやいや、もう部長なんかどうでもいい。
私は志賀さんにチョコレートを渡せばいけないんだ。ほんとにチャンスがない。
よし、もうちょっとだけ中を覗いてタイミングを見計らえばなんとかなるだろう。
そこまで決意したところで、再び部長が私の背中をつつく。

「あのさー」
「部長は黙っててください」
「いや、あの、志賀なんだけど」
「だから私は志賀さんに、」
「あいつ帰ったよ」
「チョコを渡…………え?」
「だから、あいつ今日はもう帰ったって」
「…………かえ、」
「うん、どんまい」

この人は今なんと言ったんでしょう。
志賀さんが帰った、ですって?ほんとですか?マジですか?いつもの変な冗談じゃないんですか?違うんですか?
私の驚愕の表情を見て、部長は少し引いた目をしている。

「ほんとだって。こんな嘘ついても意味ないだろ」
「それはそうですけど……え、でも、本当の本当に?」
「だってさっきそこで会ったし。今日はもう帰りますー、って」
「…………うわー」

本当に本当らしい。それじゃあせっかく持ってきたこのチョコも無駄になっちゃったのか……。
可愛くラッピングしてもらった有名製菓店の包みがなんだか虚しい。
せっかく奮発したのになぁ。
落ち込み気味の私とは違い、いつのまにか部長は休憩スペースの椅子に座ってタバコをふかしていた。

「明日渡すって方法があるじゃん」

簡単に言ってくれるなぁ。
私はチョコレートの包装を小さく撫でながら答える。

「そうもいかないんですよ、これが」
「ほう」
「今日渡すって、自分で決めちゃったんで」

決めたことを守りたい主義が、こんなときになると少し窮屈になる。
自分で決めたことだから自分で破ってもいいんだけど、なんだかそういうことはしたくなかった。
昔から損をしてきたのは分かっている。経験済みだ。
でも、気持ちをひん曲げるみたいで嫌だった。

「女の人ってそういうもんなの?」
「全員が全員じゃないですよ。私がこうなだけです」

部長もモテるけどこのあたりの気持ちは分かんないんだろうなぁ。
私は部長の近くに寄りすぎないようにして休憩スペースに腰を下ろした。タバコの煙が服につくのは嫌だし。



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