創作長編◆

□Ruin.
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涙で顔をぐちゃぐちゃにしてナキは必死に走っていた。
見えてはいなかった。触りもしなかった。
会ってたった数分しか言葉を交わさなかったトキトが最後に発した声が頭の中を回っていた。

「大丈夫か」

ネルが走りながら後ろを振り向く。
かろうじて頷くと、乗れ、と言われた。
意味が分からずナキは首をかしげる。

「背中に乗れ」

初めて会ったときみたいに、と続けて言われ、腕を引っ張られてほぼ強制的に背中に乗った。
まだ怪我も完全に治ってないじゃないですか。ネルさんだって疲れてるじゃないですか。速度だってどんどん遅くなってるじゃないですか。
そう言って離れようとしたのに、ネルはそれを見越したかのように言う。

「なめんじゃねーぞ」

それこそ初めて会ったときのように淡々とネルは言葉を口にした。

木々が頬をかすめる。
あの時の背中はまだはっきりと覚えている。
まさかまたこの背に乗ることになるとは思わなかったが、それだけのことで懐かしいと思えた。
どちらも追い込まれた状況のことなので、まったく楽しい気分ではない。
それでも、背負われて逃げるのにもかかわらずナキは妙な安心感に包まれていた。

「たぶん、もうすぐ坂の下に着く。あいつらの車を奪うから」
「―――はい」

答えてから、こんなときにもかかわらず笑いがこみ上げた。
もう車を借りるなんて優しい表現ではなくなっていたから。
それに気付かれないようナキは大きく咳をしたとき、



「はい、そこまで」



耳を貫く銃声がした。
急停止したネルの足元の土がはじけ飛ぶ。その反動で抱えていたナキが地面に倒れこんだ。
地面に座り込んで声がした方向を見ると白衣の女が現れる。

「あぁ、警戒しないで。志熊野じゃあないわよ」
「へび、づか?」
「……研究員を付けなさい、研究員を。あなたは志熊野にも同じ反応をさせてたわねえ」

長い白衣を揺らしながら「蛇塚」が近づいてくる。
細い銀色フレームの眼鏡をかけた姿はごく普通の研究員だ。
しかしそれは見た目だけの話で。

「逃げるのはやめなさい。所長が来てるから逃げられやしないわよ」
「……所長が?」
「そう。トキトだってもう捕まっちゃったかもね。というか、たぶん捕まってるわ」

肩をすくめて蛇塚は言う。
ネルはナキを背中に回したまま彼女を睨む。

志熊野が実行的暴君ならば、蛇塚は策略的暴君だ。
研究者としてどちらが素晴らしいかと問われれば蛇塚に軍配が上がる。簡単に言えばマッドサイエンティストというところだろう。
志熊野以上に悪い意味で研究熱心な人間がいると考えたくないが、残念ながら彼女はそのたぐいだった。

「あぁ、逃げちゃやあよ。彼だっているんだから」
「……蛇塚は俺の作戦を毎回ぶち壊すんじゃない」
「別にいいじゃない。隠れて不意打ち潜んで峰打ち、って私嫌いなのよ。男なら正々堂々としてなさい」
「こいつらを影から撃とうとしたやつが何を言ってるんだ」

木の陰から出てきたのは黒の服をまとったバルグ。
人質にとられたことを思い出して悪寒が走り、ナキは視線を下げてしまった。
現実を直視しなければいけないのは分かっている。
それでも心はそれを拒否していた。

「さあ、来なさい。悪いようにはしなから」
「……白々しい嘘なんかついてんじゃねえよ」

唸るように声を出したネルは頬を痙攣させながら蛇塚を睨んだ。

相手はたったふたりだけ。
しかしそれは武闘派のバルグと策略士の蛇塚だ。
神経と体力をすり減らしながら逃げてきたネルとナキでは敵うはずもなかった。
それでも自分たちは逃げなければいけない。
もう二度とあの施設には帰りたくない。

「退いてくれ」
「嫌よ」
「頼む」
「嫌よ」
「お願いだ」
「嫌だって言ってんでしょうが、脳天ぶち抜くわよ」

蛇塚の顔からすうっと顔から血の気が引いてまるで雪の色になる。その目は危なげに据わっていた。形のいい唇はわなわなと震え、苛立ちを微塵も隠していなかった。
そんな蛇塚の肩にバルグが手を置く。

「とりあえずそいつらを捕まえればいいんだろ」

ハッと気付いたとき、ネルとナキの前にその長身が佇んでいた。
「来てもらおうか」との問いに返事をする間もなくナキはバルグに捕まってしまう。
まるで――あの時のように。
その記憶を振り払うかのように、ネルは爪を立ててバルグに飛びかかった。

「ナキを離せ!」
「前にも言っただろ。猫も大事だが鳥の方が価値がある。お前こそその手を離せ」

ぶん、とバルグが腕を振ると嫌な痛さを伴って爪が割れた。裂けた皮膚から小さく流れる血がじくじくと心を突く。
しかしそれでもネルはもう一度爪を向けて叫んだ。

「離せ!!」
「聞き分けの悪い猫だな」

ナキを脇に抱えたままバルグは長い脚を振りかぶった。
ごす、という嫌な音がしてネルの体が地に飛んだ。



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