fiore di loto
□fiore di loto 2
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歩く…歩く…。
「ねぇ…ねぇってば…」
雑音は無視。ただひたすら歩いて、あたしは帰るのだ。自分の家に。マイルームという名の安住の地に!
「れーんちゃーん」
「だから!あたしの名前は麗衣、レンじゃなくてレイ!」
嗚呼!馬鹿…。
何で振り向いたんだろう。目の前の少年がニヤリと嗤う。そのしてやったりな表情に頭を抱えたくなる。まんまとコイツの罠に掛かってしまった気分だ。いや、実際思う壷だったんだけど。
あたしは溜息一つのその後に、左手に鞄を持ち直して右手を腰に添えた。
「何度も言うけど、あたしの名前は小泉麗衣(こいずみれい)。OK?」
目の前の少年を見据えてはっきりと言ってやる。もうこの台詞何回目なんだろう。
中性的なこの少年は、黒髪を揺らしてニヤニヤと頷く。黒い厚手のパーカーに、黒のスキニーを履いたその姿は華奢で、日の光に当たったことがあるのかと疑いたくなるほど白い肌のせいで、一見少女と見紛う程だ。
ひと月程前にふらりと現れ、放課後になると(たまに早朝から!)こうして付き纏う。
「んじゃあ、こうしよう」
少年はパチンと両手を打ち鳴らし、一歩あたしに近付いた。
膝から下が長いせいか、たった一歩でその身体はすぐ目の前だ。
あたしは、反射的に顎を引き身体を後ろに反らせた。
158センチのあたしより頭一つ大きい少年は、身を屈めてあたしに目線を合わせる。
「――っ!」
「レイちゃんのあだ名。俺だけはレンって呼ぶ。良いでしょ?」
鼻がくっつきそう。
「いっ!…いくない!何それっ!大体あたしはアンタの名前も歳も知らない!」
近い近い近いーーっっ!
一歩分後退るあたしの言葉にキョトンとした少年が、右に首を傾げる。
…か…可愛いじゃないの…。
駄目だ!駄目だあたし!ほだされるなっ!この身元不明のストーカーにほだされたらますます思う壷じゃないか!
こんな虫も殺せないような顔して、実は悪の秘密結社とかの人間で、心を許したら最後。『うへへへ、アラブのサド公爵に売っちゃうもんねー』『あ〜れ〜!お助けえ〜』なんて事になるかも知れない。
「名前…んじゃあレンがつけてよ。そしたらおあいこでしょう?」
「は?」
ね?と、今度は左に首を傾げる。
その左耳にある黒い十字架と逆十字のピアスが揺れた。
期待に満ちた眼差しを送られて、コイツは犬か!と思う。
でも確かに、名前を教える気がないなら呼び名がないのは不便な事極まりない。
「…コウ…『煌』」
無意識に口をついて出た音。
目の前の少年、煌はその瞬間えも言われぬ程に、甘く、笑った。
「――っ!」
不覚にも顔が熱くなる。そんな甘く蕩けるような笑顔を向けるな!猥褻物!そうだ、コイツは猥褻物だ!
「と、歳は?」
負けないもん。負けるもんか!
「ん〜?レンと一緒?」
また首を傾げて煌が言った。何故疑問形だ。猥褻物よ。
「じゅ…16?」
「ん」
こくりと頷いて、煌は何かを見付けたように遠くに視線を移した。
「ごめん、レン。俺もう行かないと。また明日ね」
そう言ったかと思うと、煌は一瞬顔を近付けて身を翻して走り去って行った。
「…………」
唇に残る、暖かで柔らかい感触に、あたしは今度こそ頭を抱えて踞る。鞄を落とした事など構わずに。
「あ…あ…あたしのファーストキス…」
嗚呼、ジーザス!
いたいけなあたしの、純真無垢なあたしの、ファーストキスは…今日、猥褻物に奪われました。