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□囚われたロマネスク
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目の奥の突き刺すような刺激に、思わず目頭を押さえる。じわりと滲む涙が粘ついている気がして、しばらく瞬きさえ忘れていた事を、厭味っぽく身体が私に訴えた。
終業のチャイムからどのくらい経ったのだろうか。気が付くと、執務室内は静けさに包まれていて、目の前にあるノートPCのファンが唸る音がやけに耳についた。
ブラインドが下ろされた室内は、必要最低限の照明のみ点灯していて、私以外の人間はとっくに退社したことをここにきてやっと思い知る。
傍らのサーモマグに口をつけて傾けると、既に冷たくなった珈琲の酸味が不快で思わず眉を顰めた。
軋む身体を椅子から剥がし、給湯室でそれを流す。黄味がかった小さな蛍光灯が、ディスポーザーに吸い込まれる珈琲を照らしている。
その様が、何となく自分に重なって見える、なんて事を考えて馬鹿馬鹿しいと少しだけ笑った。
「まだ終わんないのか?」
珈琲を淹れ直し、再び席に着こうとすると、既に帰ったとばかり思っていた上司が、怪訝な表情を浮かべて声を発した。
「あ…課長、いらしたんですね。すいません、もう少しだけ…。施錠はして帰りますので」
まさか管理職が残ってるなんて思わなかった。だがさすがにもう帰るのだろうから、私はそのまま席に着いて残りの仕事に向き合う事にする。
右側から感じる視線は私の勘違いだと、私が自意識過剰なあまりにそんな風に感じるのだと、祈るように言い聞かせながら。
40歳を過ぎたこの課長は、誰よりも仕事が速く正確だった。成る程、働き盛りとはよく言ったものだ。知識と経験と能力と体力、その全てのバランスが良いのだろう。私達部下が役に立てている気がしない程だ。
だから私はこうして時間を掛けて、その低い能力を補わなければならないのだ。
この人の部下でありたいがために。
もうしばらく、傍で課長を感じていられるように…。
資料を捲る音。キーを叩く音。
それすら、右側から感じる視線を打ち消してはくれなかった。
「ただやれば良いってもんでも無いだろう? そんな風に仕事をしても効率は良くない。そろそろ切り上げろ」
柔らかいテノールは、それでも有無を言わせない覇気がある。私は意地になることすら出来ずに、ゆっくりと手を止めてから視線を右下に向けた。
「何故そんなに無駄に頑張る?」
貴方と此処にいたいからです。
「………満足のいく形に資料がまとまらなくて…」
「資料はタイミングだ。完璧なものは総じて急ぐ必要の無いものだと思わないか?」
ツキリと肋骨あたりが軋んだ気がした。
わかっている事だ。課長の傍でその仕事振りを見ていたのだから。
それでも、誰かが後からまとめるのなら、せめて私にやらせて欲しいのだから…。
「…なあ、こっち見ろよ」
初めて聞いた、その普段より少しだけ甘さを孕んだ声に私の耳が驚いて、心臓が跳ねる。
ツキツキと肋骨が軋むように痛んだ。
身体は、顔は、課長の方を向かせることができても、視線は外して彷わせる事しか出来ない。
肋骨が痛い。背筋までゾクリと悸く程に、鼓動が狂ったように走る度に痛む。
よく見ると、課長のPCは既に閉じてあって…
課長は立ち上がって真っ直ぐに此方に歩みを進めた。
背中が背凭に吸い寄せられる。
それでも足りずに、キィと細い鳴き声を上げて後退する。
「…課長…」
「ん?」
「…痛むんです」
私の膝に課長の脚が当たった。
腰を折り、私の椅子の肘掛けに両腕を突いた課長が、少しの疲労と熱を内包した瞳で私を追い詰めた。
嗚呼、私はとっくに囚われて、この人の手の中にあったのだ。
「何処が痛む?」
「肋骨が…胸が…い…た―」
言い切らない内に、食らい付かれたのは唇。
窒息寸前で溺れながら、私は両腕をその首に絡めてしがみついていた。
END.
title : 水葬
20100427 ラブログ掲載