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□輪郭をなぞるあたたかい指先
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輪郭をなぞるあたたかい指先






「まだやってんのかよ」

頭上を通り抜ける声を聞き流したまま液晶の中の言語と演算子に夢中だったあたしは、肩に置かれた手の感触にやっとそれが自分に向けて放たれた言葉と認識した。

キリの良いところにコメントを打ってから、確認が済んだあたしはその声の主に振り返る。ぼやけた人型を認識したレンズが絞られていたピントを合わせ直すのがわかる。効果音をつけるとしたら、キュイーンといった感じで。

「ああ、お疲れ」

目の前に立つ不機嫌そうな彼をやっと認識した私は、デスクに置いたままのペットボトルに手を伸ばしとっくに常温になってしまっているそれを飲み下した。

「今日は3秒」

「え?」

「こっち向いてから俺を認識するまで、…ったく、声で判れよ。そして少しは嬉しそうな顔してみろよ」

拗ねたように言ってから、彼が屈んで私の頬に唇を押し当てる。

「だって、仕事中」

パーティションで区切られた壁際の私のデスク周りは、誰かに見られる心配はないにしても、いつ誰が立ち上がるかわからない。立ち上がれば低いパーティション越しに、仕事中にも関わらず不埒な事をしている浅はかなカップルがバッチリ見えてしまうのだから。

「何時間やってんだ? とっくに8時越えてる」

体型の割に意外と幅のある肩に両手を置いて押し返す私に、構う事なく唇は頬を滑り耳へと移る。

「んっ…」

「色っぽい声出してる方がまずいんじゃねぇの?」

愉しそうに笑った彼の手が私の首筋を撫でてからシャツの内側へ滑り込む前にその手首を掴んでその腕のスピードマスターを見た。どおりで目が乾く訳だ。私は3時間以上座ったままでプログラミング作業に没頭していたんだから。

「他の人は帰ったんですか? 係長」

わざと役職で呼んでやると、彼は眉毛を上げて肩を竦めて見せた。

「さっき最後のヤツが帰ったよ。皆納期に余裕あるからな、好きで残るヤツなんていねえだろ」

お前と違ってな、そう続けられた台詞に今度はあたしが肩を竦めて見せる。






あたしのデスクの上、キーボードにサイドから伸びた彼の手が、さっきあたしが打ったコメントに今日の日付を打ってから保存ボタンをクリックする。

「あっ! やだ、ちょっと!」

あたしは慌ててそのマウスを奪うが、既にウィンドウは消えた後。

「信じらんない…。仕事の邪魔する上司がいる?」

あたしは髪を掻き上げて傍らの上司兼恋人を睨んだ。

「適正な業務の進め方を指導してんだ。ホラ、帰るぞ」

空になったペットボトルを取り上げた彼が背中を向けてドアへと脚を進める。その後ろ姿に溜息を吐いて、あたしは端末をシャットダウンした。

デスク周りの資料を片付けて、その中に埋もれたプログラムリストに気になる点を見付けてしまったあたしは、浮かせた腰を再び椅子に沈めてリストのルーチンを読み返し始めた。

どうにも素人っぽいその構文が気に入らなくて、あたしはメモにそれに代わるプログラム言語を書きなぐる。

ようやく満足のいく構成ができ上がって顔をあげたあたしの横から差し出されたのは、湯気の立つ珈琲。

「…ありがと」

両手で受け取った褐色の液体の表層を撫でるように揺らめく湯気を見て、知らぬ間にエアコンで冷えた身体を自覚する。
「仕事馬鹿」

「気になったんだもん」

「俺はてっきり会社で抱かれたいのかと思ったけどな」

「色呆け係長」

「照れんなよ」

薄い珈琲がじんわりと内側からあたしの身体を暖めた。

今度こそ、この欝陶しい上司兼恋人を宥めてやらないといけない。デスク周りを片付けて、空になったカップを2つ重ねて給湯室へ行こうと立ち上がると、手の平の中のカップを取り上げられる。

「なあ…俺って出来た男だと思わねえ?」

カップをデスクの上に再び置いた彼が、あたしの両脇に手を突いた。どうやら雲行きが怪しい。

「出来た上司だと思います。…ね、帰ろ?」

目を細めてあたしを見下ろす彼。その瞳に揺らめく獰猛な何かをはぐらかすように、あたしは彼を見上げて説得を試みる。

「お腹、空いたでしょう? 待っててくれてありがとう。ね、帰ろ――」

矢継ぎ早に続けるあたしの説得も虚しく、奪われた言葉。

腰と後頭部に回された大きな手の平から伝わる熱。

良く知る男の温度は、凝り固まったあたしを解きほぐし、やがて音を立てて離れた唇が紡いだ言葉に、あたしは諦めて自ら捕食の対象となった。


「俺は今すぐお前を食べたい」


言葉とは裏腹な、頬を撫でる指先はあたたかくどこまでも優しい。



END.


Title:

20100611 ラブログ掲載

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