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□駆け出した、追い掛けた
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出勤後の給湯室。昨日洗ったタンブラーに鼻を突っ込んでみる。念入りに洗ったはずなのに、珈琲の匂いが染み付いていて、あたしは何だかムッとした。朝一から何と無く面白くない気分で、泡塗れのスポンジでタンブラーをゴシゴシ洗う。

「はよーっす」

気の抜けた声が背後から響き、気を抜いていたあたしは大袈裟な程に肩を強張らせた。

「…はようございます…」

「ああっ? 聞こえねぇな」

「おはようございました!」

んだそれ、って言いながらも頭をぽんぽん叩く掌は優しくて、泡塗れのタンブラーを流しながら首を振ってその手を避ける。
何かとあたしを弄り倒すこの男は、一応直接の上司で年上なくせに、やることも言うことも一々子供じみていて欝陶しい事この上ない。あたしを苛つかせる天才と言っても過言ではないとさえ思う。

尚も追いかける掌を、一応タオルで拭いた手で今度はしっかりと払い退けた。

「ちょ、主任、マジで朝からウザいです」

「相変わらずツンツンしてんなあ。まあそこが可愛いんだけど」

「だから、それがウザいです」

「あらら、いっつも言ってっけど、俺本気よ?」

狭い給湯室の壁に凭れて腕を組みながら、そんな台詞といやらしい流し目を送られて、更にイライラ度は上がるが、あたしは欝陶しい主任に構う事なく、誰かさんのせいでいつもより多めに水の跳ねたシンクを拭いてから振り向いた。

「あーハイハイ」

じゃ、と手を上げてその場をクールに辞すつもりだったあたしの肩に力強い手が掛かる。
文句を言ってやろうと口を開く前に、耳元に主任の鼻筋が触れた。

「匂いフェチ? さっき鼻突っ込んでんの超可愛いかったし、脳内で何回もリピートさしてもらうわ」

「っ! …変態!」

「サンキュー」

褒めてねぇよ。

不覚にも…見られていたとは。あたしは背を向けて手を振る主任の背中に舌打ちを一つ送ってから、オフィスへと戻った。

多少見目が良く、そこそこ仕事もやり手で、ちょっとエッチっぽいテノールの声で好きだの可愛いだの、言われて最初はあたしも照れと羞恥に舞い上がったもんだ。でも毎日毎日繰り返し、人気のない場面を選んでそんな事を言って来る主任に徐々に苛立った。こりゃ挨拶だ。セクハラだ。見えないだけで他の女性社員にも同じ事してんじゃん。当然じゃん!
舞い上がった気持ちが落ち着くと同時に、嫌悪感が強くなる。全くもって欝陶しい事この上ない。




柔らかい床ににヒールを取られて躓いてから、何と無く咳ばらいして体裁を整える。何でうちの会社は廊下までアンダーカーペットを敷いているんだろう。廊下はタイルカーペットにすりゃあ良いのに。

「何にも無いとこでコケたな。かーわいー」

背中から、一番見られたくなかった人物の甘いテノールが響いた。

「足元覚束ないの? 俺が支えてやろうか?」

明らかにニヤつく声に、振り向いて睨み付ける。

「良い加減放っといて貰えませんかね。あたしみたいなの弄ったって面白くないでしょう? 事務所にいっぱいいるじゃないですか! 主任に弄られたら泣いて喜びそうな人達」

「なに? 妬いてんの? かーわいーんじゃね?」

主任はまだそんな事を言いながら、徐々にその距離を縮めてくる。

「ほんっと迷惑なんで、そういうの。そういう絡まれ方不愉快ですし、セクハラですよね? 部下虐めて楽しいですか? これ以上続けられると業務に支障来します」

「何で? 俺で頭いっぱいになっちゃうから?」

話聞いてんのか? このオッサン。

「だからそういうの、止めて下さい」

「そういうのって?」

何でこんな強気なんだろう、この人。主任は近付き、あたしは少しずつ距離を取る。後退るまま背中に衝撃。いつの間にか壁際に追いやられていた。

「セクハラ紛いの数々の嫌がらせです」

この手の輩には怯んじゃいけない。毅然とした態度で臨まないと思う壷だ。

身体の両サイドを両腕に挟まれても、本当は震えてる膝を叱咤して睨み上げる。いっそ誰かがこの廊下を通ってくれれば良いのに。

急にぐらりと背中を宛てていた壁が揺らぎ、後ろに倒れそうになるところを主任の腕が支える。視界が揺れてそこに映る天井に、会議室に押し込まれた事を何処かぼんやりと把握した。

薄暗い会議室で、腰に絡まる手から逃れるようにもがいても、その腕は弱まる事なくあたしを閉じ込める。

「っ! …セクハラっ!」

「何でイライラすんの? 俺の事で頭いっぱいになっちゃうからじゃねぇの? 自分ごまかして、嫌だって言い聞かせてるからじゃねぇの? そろそろ素直に認めてゲロっちまえよ…ホントはどう思ってんの?」

「……大、嫌ぃ―」

噛み付くように奪われた声に、その胸を力いっぱい押し返すけどビクリともしない。

唇が離れた瞬間息継いで、次こそはと繰り返す。

「だいっきら―ンんっ」

後頭部を抑えつけられて咥内を蹂躙する舌が離れた直後に聞こえたのは、信じ難い程に切な気な掠れた声。

「それだけは言うな」

ホントは知っていた。あたしにしかちょっかい出してない事くらい。
主任の目が何時だって本気だった事くらい。
触れる手が指が、優しい事だって…わかってた。

「…主任が…言わないから…だから嫌い」

さっきあたしの声を力強く強引に奪った唇が、額に、鼻先に優しく押し付けられる。

「核心がないとおっかなくて言えねぇくらい…お前に惚れてるんだ、俺は」

腰に回された腕が再び強く引き寄せるから、あたしは自分より大きな主任の身体に腕を回して背中を撫でた。

「最初っから…そう言えば良いのよ」

へっ、なんて強がって笑って見せる主任に、あたしは背伸びをして首にしがみついて耳元に噴き込んだ。

「嫌いなんて…嘘だよ」




Title:Chien11

20100717 ラブログ掲載

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