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□蛍火
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 朝晩の風は既に肌寒く感じる事もあるが、日中の暑さにまだ夏の盛りなのだと思い知らされながら、日の陰る縁側から青々しい山を眺めていた。時折そよりと吹き込む風が鉄器の風鈴の涼やかで硬質な音を鳴らすが、それを相殺して尚余りある蝉の大合唱がまた暑さを煽る。

 庭の向こうの垣根越し、私道を挟んだ向こうに見える畑が揺らめく様に、半ばうんざりとしながら室内へと首を回すと、盆棚には桔梗や百合の花と幾つかのオブジェが。茄子や胡瓜に突き刺さった割り箸はどうやら脚らしい。胡瓜の馬に茄子の牛。これと同じ物がこの家の玄関先にも置かれていた。交通手段としてそれを用いる事を想像すると、その様は何やらふわふわとしたファンタジーで、星の形をした青紫と白色の桔梗が尚更そのメルヘン具合に拍車を掛けるななどと思いながら、わたしは盆棚のオブジェを眺めていた。

「西瓜切ったわよー」

 台所から叔母の声がする。わたしはそれに答えて板張りの廊下をペタペタと歩いた。

 省エネだの何だので、今年の盆休みは一週間と長いものだった。さてどうしようかと考えてはみたものの、特に良い案も浮かばず、祖父母に誘われるまま例年通り本家を訪れる事にした。両親は言葉少なに頼むね等と言っていたが、わたしに気を遣ったのだろう。日中は連日わいわいと賑わいはするが、親戚は近隣に住むせいか泊まる者は居らず、就寝の早い年寄りと叔父一家が住む家は、十分過ぎる程広い為煩わしさは感じる事無く気儘に過ごして既に今夜で3泊目である。





 客間に敷かれた布団はわたし一人分であり、大きな蚊帳はお姫様みたいなどと小さな頃喜んだせいか、祖父母は良かれと未だに用意するのだろう。この和室は盆休みに本家に訪れるわたし専用の寝室だった。
 簾戸は開け放ち、縁側に座って汗を掻いた瓶ビールを呷る。

「んまそう」
「…んまいよ。飲む? まだあるから」
「ん、一口頂戴」
「これもんまいよ。昼間もいで来たの」

 何時の間に来たのだろう。わたしの隣に腰を下ろした彼に、昼間畑で摘んで浅漬けにした胡瓜も勧めてみる。上下に動く彼の喉仏が、実に美味そうでわたしは傍のビール瓶を新たに開けた。

 ぷしゅ、と小気味の良い音に彼が胡瓜を噛むしゃくしゃくという音が重なる。昼間あれだけ騒いだ蝉は静かになり、鈴虫や蟋蟀がりろりろと鳴いていた。山は黒く影を夜に溶け込ませ、外灯など無いが煌々と青白く照らす月明かりが十分な程、それ程に夜が濃い。

「ね、ここってさ、わたしの家…ってか本家な訳じゃない? 何で来たの?」
「何でって…君が居るからでしょうよ」
「そういうもんなの?」
「割と自由みたいだよ」
「へえ」

 これ美味いね、何て言いながら彼は目を細めてビールを飲んだ。

「今夜で最後?」
「そうだね、明日には送られるから」
「そう。あ、ねえ、あれ、茄子の牛に乗るの?」
「胡瓜の馬に乗るんだよ」
「牛は?」
「俺のイメージって牛より馬でしょ」

 右側の口角だけがにやりと上がる。楽しそうな、でも悪そうな、この顔をわたしはよく知っていた。

「何だ、嘘か」

 年甲斐も無く唇を尖らせ頬を膨らませて顔を横に向けて拗ねるわたしの髪を、からからと笑い声と一緒に大きな手が撫でる。

「…ごめんね」

 ー やめて。謝ったりしないで。

 最後の夜だというのに、わたしは顔を背けたまま戻す事が出来なくなってしまった。

「良いよ、忘れても。幸せになって良いんだよ」
「ーっ!」

 膨らませていた頬の内側を奥歯で噛む。震えてしまう肩はどうやっても止められず、それでもこんな顔を見せたく無くて、体当たりする勢いで彼の胸に飛び込むわたしを受け止める腕はこんなにも暖かいのに。

「なーんて、絶対言わないから」
「…え?」
「忘れなくても忘れても好きなように、思うままにしな?」
「……酷い」
「知ってるでしょ? 俺は性格悪いって」

 彼の言う言葉の意味をどう受け取ったら良いのやら。定形文のような【忘れて幸せになれ】という言葉に傷付いた癖に、【思うままに】と言われてしまえば突き離されたような淋しさ。それでもわたしを撫でる掌は優しくて、言い様の無い苦しさが咽喉を焼いた。

「あのね、君が時間を掛けても掛けなくても、新たにまた幸せになろうとするのも、それは嬉しい事だよ。でもね、結果的に俺を忘れられずに囚われてしまえば、俺を恨んでも憤っても惜しんでも悼んでも、寂しくて苦しんでも、俺で埋まってたらそれはすごい嬉しい」
「…最低。性格悪い…」
「ねー、俺もそう思う」
「地獄に落ちろ」
「やめてよ、縁起でもない」

 ぽんぽんと背中を宥められ、やっと息つき彼を見上げれば、既に正中近い月を背負うように微笑む優しい目がわたしを慰撫する。

「これ、持ってるならこっちは俺に頂戴」
「駄目!」

 首から下げたチェーンに通る彼の指輪を掬った指がわたしの薬指をそっと撫でた。

「何でさ! 良いじゃんケチ」
「いや!」
「でも貰っちゃう」

 馴染んでしまった指輪はつけている感覚は無くなっても、その物が無くなってしまえば違和感を感じる。

「お願い、頂戴? ね?」

 再び湧き出る涙で、彼がぼやけてしまう。いや、違う。もうタイムオーバーなのだろう。彼の輪郭が曖昧になり、庭の景色が透けてしまっていた。

「愛してるよ。君が俺を忘れても日常に紛れて記憶の隅に追いやられても、終わる事無く愛してるよ」

 近付く彼に、目を閉じる。触れた唇は涙の味がした。

 どれくらいの間そうしていたのだろう。意を決してゆっくりと目を開けると、予想通りそこには彼の姿は無く、汗を掻いたビール瓶と浅漬けが入っていた空の小鉢がお盆の上にあるだけだった。ふと感じた違和感に見下ろした左手の薬指には、ぼんやりと光る蛍と細くなってしまった指輪の痕が残っていた。




END.

20120816 ラブログ掲載

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