inクズカゴ。

□役にも立たない神などぶち壊せ
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夢からふと覚めて、私は汗をかいた額を手の甲でそっと拭った。
胸の奥にじっとりとした不快感が残る夢であったが、その内容は、目を開けた瞬間に彼方へと飛んでいってしまった。夢とは得てしてそういうものだ。
動悸がまだ収まらず、その興奮のせいで瞼もぱっちりと開いてしまい、再び眠りに付くことが難しくなった。
部屋の隅の窓から北風が入り込んで来た。顔の表面を冷感が走ったが、しっかりと毛布にくるまっていたので身を震わせるほどではなかった。

この寒い時期に、わざわざ窓を開け放して、身体の芯まで凍えさせるような風をいっぱいに浴びているのは、飛段だ。
窓枠にゆったりと腰掛け、脚をだらしなく伸ばして、精悍な瞳で満月が浮かぶ空を見上げる様は、さながら狼男か何かのようだ。
普段、ぺらぺらと言葉を紡いで止まらない唇を閉じると、やはり飛段は激的に格好良くなる。欲目ではなく、そう思う。曇りのない紫色の瞳が爛々と輝いて、満月が落ちてきやしないかとでも念じるように、夢中で見つめていた。
「ひだん」と小さな声で呼ぶと、食い入るように月を見ていた瞳がこちらに向けられた。

「んだぁ、眠れねーか」
「起きちゃったの、変な夢、見て」
「そりゃあ、」
その先に言葉は続かず、代わりに飛段は「災難だなぁ」と言うように肩をすくめてみせた後、再び月へと視線を戻した。その至極興味の無さそうな言い草に、私は少しムッと顔を顰めた。
「ねぇ、一人じゃ、いや。こっちに来て。一緒に寝よう」
私にしては、随分と思い切った我が儘というか、駄々である。たったこれくらいのことを言うことすら躊躇ってしまうほどに、私たちの関係は、情熱やら衝動といったものからはかけ離れている。私は、自分勝手で憎らしくて、私を追いていつも一人で駆けて行ってしまうような飛段を、引き止める言葉すら持っていない。
ただ傍にいて欲しいだけなのに、その欲望だけが一人歩きして、行き場もなく、心を焦がす。
「ダメだ」と、まるであやすような声で飛段は言った。

飛段は、眠らない。
夜にぐっすりと眠りに耽っているところを、見たことが無い。
不眠症だとかそういうわけではなく、単に夜はジャシン様に祈りを捧げる時間であるから眠らない、というだけらしいが、彼は毎晩飽きもせず、ああして窓を開け放して月を見上げ、瞳を遠くに移して、「ジャシン様」という存在に思いを寄せている。
無宗教である私には、その存在の尊さは分からない。私が世界で最も愛して、尊敬して、求めて止まない存在は飛段だけであり、私の世界の全ては飛段に彩られているから。
きっと、私が飛段へと寄せる気持ち。その気持ちそっくりそのまま、飛段はジャシン様へと向けているのだ。
そう考えると、自分だけが片想いしているようで至極切なかった。ジャシン様などという、ぼんやりとしていて抽象的な存在にさえ嫉妬が沸いた。飛段に、そこまで信仰してもらえることが羨ましかった。
この世界に神などいらない。世界など、無情で冷え切っていて、不幸や絶望はそこら中に飽きるほど散らばっているのに、幸せなんてものは手のひらに収めた瞬間にすり抜けていく。掴んだままでいることが出来ない。最後に手元に残るのは思い出などという不要な残骸だけだ。
どうせ思い通りにならないのなら、神など滅んでしまえばいい。私の大事なものを全て奪っていく、願いを叶えてくれさえしない。そんな神など、私は必要としない。
自分が無用な石ころになってしまったような、そんなやり切れなさを抱え、私は寝返りを打ち飛段に背を向けた。
どうせ私のものにならないのなら、飛段のことも要らない。
奥にじっとりと広がる不快は消えない。そんな気持ちを誤魔化すようにひたすら目を閉じるが、瞼の裏の暗闇は、マイナスの感情を余計に増大させる要因にしかならなかった。考えてはいけない、気にしていてはいけないと思うほどに、黒い感情は広がっていく。水の中に黒色のインクを垂らしたように、じわじわと音も無く、全体を染める。抜け出せない感情の螺旋、蟻地獄。




「仕方ねーなァ」と、その時すぐ背後で声が響いた。
「んな悲しそうな顔されちまったら、俺が悪いことしたみたいじゃねーか」
悪いとは思っていないが。飛段が夜眠らないというのは承知していての我が儘だったのだし、飛段が、私よりもジャシン様を優先させるのだって分かってはいた。飛段のせいで悲しい、切ない、と思っていたわけではなく、持て余していたのは先ほどの夢の余韻と、神を恨むことしか出来ない自分。
飛段はむっすりと、口をへの字にしながら無言で私の布団に潜り込んで来て、そのままくるりと寝返りを打ち、私と背中合わせをするように向こう側を向いた。
「ひっ、飛段?」
「あ?」
「ね、寝る、の?」
今まで一度だって、夜に眠ったことは無かったのに。
「眠ぃんだよ、俺だってな。生き物は夜に寝て昼に活動するもんだ」
「ち、ちょっと、」
自分から言い出したことではあるが、いざこの状況になってしまうと、戸惑いしか浮かばなかった。何だって彼は急に。あれほど信仰して止まず、日課であった夜空を見上げることも放棄して、私の隣に来るなど。
「てめェな」と飛段は相変わらずむっすりと、あちら側を向いたまま吠えた。
「あんな事言われちまったら、こうする他ねーだろ!男として。合法的にてめェと一緒に眠れるんだからよ」
いや、合法も違法もあったものではないのだが。
「だ、だって、ジャシン様は?いいの?」
「……まぁ、あれだ。祈りは捧げるが、別に戒律じゃねーからな。一日くらい、ジャシン様はお怒りにならねぇよ。心の広い方だからな」
まるで自分の知り合いのように馴れ馴れしく、さもジャシン様を分かったように得意げに話す飛段は、いつの間にかむっすりとした様子も取れている。相変わらず、背を向けたままではあるが。
「それよりも俺は、こっちの方をどうにかしなきゃなんねーからな」
「こっちの方?」
「ブーたれて拗ねてやがる、女神様をよ」

「………………飛段」
「あぁ!?」
「…………クサいよ」
そんな歯の浮くような表現を、一体どこで覚えて来たのだろうか。そして、覚えて来たとしてもそれを実際に口に出すとは、ああ、彼はなんて。
「……るせー……こっち見んな、バカ……」
暗闇で見えないが、耳たぶまでを真っ赤に染めて、口角をぎゅっと結んで、眉間に皺を寄せてフンと鼻を鳴らす、そんな飛段の様子が手に取るように分かり、私は思わず、微笑みを漏らす。じわじわと広がるインクの黒は、いつの間にか彼の手によって洗われていた。
「それよりな」と飛段は後ろ向きのままこちらへと腕を伸ばしてきて、私の手首を、冷えた手のひらでグッと掴んだ。
「てめぇから言い出したことだからな、後で汚されたとか酷い男だとか、勝手なこと抜かすんじゃねーぞ」

嗚呼、飲み込まれる、と思った瞬間に、いつの間にか視界は彼一色に染められていた。
湧き上がったのは、どうしようもない愛情と、どうだ見たか、という神への優越感。






END



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放っておくとすぐシリアスな方向に行きやがるので、無理矢理軌道修正したらよく分からないことに。

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