イヒト

篠崎屡架
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例えば、漫画に出てくるような“イケメン”とやらはきっと、顔も良くてなんでも出来て、都内の夜景が見渡せるような高級マンションの最上階に部屋を構えて……ワインなんか片手に構えながら優雅に微笑んだりするものなんじゃないだろうか。違うのか。


「…アンタは何がしたいんですか。俺を怒らせたいんですか。俺に怒られたいんですか。それとも俺に怒られたいんですか。」


けど、少なくとも今この俺の目の前でソファに丸くなって眠ってる男は。


「えーっと…つまり沢村は今めちゃくちゃ怒ってるって解釈してもいい?」


ふあ、と一つ欠伸を漏らしながらのそのそと体を起こして、へらりと顔を緩めるこの男は。


「はい、よくできました。…というわけで、一発殴ってもいいか?」


そんな“イケメン”の定義からは正直言ってほど遠かった。














「御幸先生。」
「ハーイ。」
「…俺、言いましたよね。」
「うん?」
「水曜日に渡した赤入れした原稿、次来れるのは週末だから、それまでに確認して返して下さいって丁寧に丁寧に封筒に入れてお渡しして言いましたよね…?」
「あれだよな。沢村って見かけに寄らず几帳面だよな。」


俺尊敬しちゃう、なんて再び寝そべったソファの上で、近くにあったクッションを指で弄りながら楽しそうに笑う男に近寄ると、そのまま通り過ぎてその後ろの棚まで歩いていく。
その様子を別に気にするでもなく寝返って体制を仰向けから横向きに変えた御幸先生はまた一つ、何度目か分からない欠伸を漏らした。


「………。」


俺はもう感情に任せて、その頭を、パンッと結構な勢いをつけて一度も開いた跡すら無い綺麗な茶封筒で叩きつけた。


「いって…!」
「御幸先生、とりあえず説明だけして頂いても宜しいですか?」
「沢村さー…頭叩くなよ。今のでネタ数個吹っ飛んだぜ、絶対。どうしてくれんの、責任とってくれんの?沢村が結婚してくれるっていうんなら許してやらなくもないけど。」
「説・明・し・ろ・っつ・って・ん・だ・よ!!!!」


ぶちっと鈍い音がしたかと思えば、次の瞬間には部屋中を満たすような大声が響く。しかもむかつくことに、それを完全に予知していた御幸はちゃっかりソファの上で耳を塞いでいて、何食わぬ顔でソファに寝転がっている。
阿呆みたいに耳を手でバンバン叩いて、煩いと主張するこの男に対して芽生えたのは多分殺意で間違いない。


「なんで!あれだけ!!あれだけ俺が何度もお願いしたのに!時間が無いから絶対にお願いしますよ、って!お願いしたのになんで…!!」
「まぁまぁまぁ。落ちつけよ沢村。別にそれで世界が終るわけでもないんだから。」
「これが落ち付いていられるかああああああ!!!!」


その場に崩れ落ちるような勢いでガクリと膝をついて頭を垂らした俺を見て、漸くソファから体を起こし、飄々と軽い動きで近寄ってきた御幸に、なぜか頭をぽんぽんと叩いて慰められた。
なんでだろう。頭を撫でているヤツこそ憎むべき対象だっていうのに、なんだか思いっきり泣きたくなってきた。泣いてもいいだろうか、これ。


「お前の…お前の原稿だけは落とせねぇんだよ…!お前の原稿だけは!うあああ怒られる!絶対怒られるううう殺されるううあああ!!!」
「大丈夫だって。なんとかなるって。」
「お前が言うな!お前が言うな!!」
「元気だなぁ。沢村。」


泣き崩れる勢い(というかもう完全に泣き崩れてる)で床とお友達になった俺を見下ろしながら、胡散臭い笑顔をほわほわと浮かべた御幸が、それはもう穏やかにそう言って笑った。
声を荒げる俺とは真反対。従来なら落ち着く顔に似合いの落ち着いた動作の全てが、けれど今は憎たらしかった。
顔を上げて、キッと御幸を睨めば、降参とばかりに肩をすくめた御幸が笑う。


「折角の可愛い顔が台無しなんだけど。沢村。」


そんな冗談を言ってクスクス笑いながら、スッと傍を離れた御幸が向かったのは、先ほど茶封筒を取った棚の方。
その棚の一番上を音も立てずに開くと、取り出したのは見覚えのある茶色い袋。


「え、?」


思わず漏れた言葉に、まるで悪戯に成功した子供のような顔を浮かべた御幸が、ひらひらとそれを軽く手元で振った。
それに弾かれるように、目の前に落ちていた、先ほど御幸の頭を爽快な音を立てて殴った茶封筒を引っ掴んで中を確認すれば、そこに入っていたのは、見覚えのない落書きばかりの紙束。

謀られた。

そう気付いた時には御幸が目の前に居て、さっき俺が御幸にしたように頭にポスンと軽い力を込めて茶封筒を乗せた御幸の作りだけは綺麗な瞳に、情けなく項垂れて床に座り込む俺の姿がはっきりと映り、ぐにゃりと細められた。


「いつもお仕事ゴクローサマ。」


…もう、大嫌い…この人。











俺がこの性格悪…もとい、御幸一也先生の担当編集になったのは、入社してから3年経った頃のことだった。
元々俺は雑誌編集の担当だったんだけど、その雑誌で御幸先生の対談を特集することになったのがきっかけで、なぜかその後部署から一人引き抜かれて、気付いた時には御幸先生の担当編集になってた。
雑誌を作る仕事も嫌いじゃなかったけど、俺は大学も文学部だったこともあって、元々本が好きでこの業界に入ったんだし、いつかは出版の仕事がしたいと思ってたから、驚くより何より嬉しかった。それに、“御幸一也”といえば、知らない人はいないほどのベストセラー作家。デビューは純文学の作家だけど、最近では純愛をテーマにした恋愛小説をいくつも出していて、そのどれもがこの出版不況の世の中で信じられない売上を記録している。その上ドラマ化した作品もいくつもある。俺も彼の本は殆ど揃っていて、思わず泣いてしまった本だって少なくない。
だから、その編集になれた時は本当に嬉しかった。これから頑張ろう!…そう、志新たに仕事に取り組んだ。

…のに。


「まさかこんな、グータラ男だったなんて…。」


はあ…、深いため息が、向かい合うデスクの上に零れ落ちた。

尊敬する“御幸先生”は、初めて会った時は言葉を無くしてしまうくらいの、それはそれは整った顔立ちの人だった。まさに、御幸先生が書く小説に出てきそうなほどの完璧さ。
神様は二物を与えないというけど、そんなのウソだと反射的に思ってしまうくらい完璧で、対談中の言動も態度もその中身も、本当に完璧。年上相手にも臆することなく話をするし、年下が相手だとしても、対等な態度で話をしてくれるその姿勢に、感服すらしたのを未だ覚えてる。

けど、いざ自分が編集になって、御幸先生のところに頻繁に通うようになってから、“ソレ”は徐々に露呈するようになった。


御幸先生は…そう、一言でいえば、とてつもなくだらしが無い。


その上、締め切りは守らない、勝手に行方をくらます、すぐにちょっかいをかけてくる性格悪で、しまいには生活力が呆れる通りこして悲しくなるほど皆無だった。これのどこが、「完璧」だと思ったのか、昔の自分を叱咤してやりたい…。

顔が良くて、金持ちで、才能もあって…その上住居は高級マンション最上階ワンフロア。
ここまで揃えば、なんでも出来るってのが王道じゃないのかと、もし彼の人生を描く人がいるのなら文句を言うことだろう。
けれど現実の御幸先生は、それはそれはもう小説を書く以外何も一人では出来ない人だった。
本来なら自分のことにも興味が無いから、住む家もどうでもよかったらしいんだけど、会社の方から先生になんかあったら困るってんで契約諸々責任持つからと言われて今の家に引っ越したんだそうだ。そうじゃなかったら今頃家賃3万くらいの賃貸アパートにでも住んでる、と言われた時にはくらりと眩暈がした。(御幸先生はこの甘いルックスで、この業界どころか最近ではメディアへの露出も増えていて、追っかけのファンだって少なくない。)

けど…。

(デビューが15の時、だもんなぁ…。)

出会った当初の頃、「アンタ他に趣味とか無いんですか」って聞いた時の御幸先生の表情を、俺は今でも忘れない。

『あったら、よかったんだけどなー…。』

あの、悲しいとも寂しいとも違う微妙な表情で呟いた先生の言葉。その言葉が、今の俺を支えているといっても過言ではない、と思う。
そんな若さでこんな特殊な環境に居たら、確かに性格の一つや二つくらいスプーン曲げな勢いで曲がりそうだ。…そんなことすら納得できそうになったりして。


「けーどなぁ…、流石に最近ちょっと悪戯が過ぎるんだよ…。」
「…御幸先生のこと?」
「っうおあ!?」


再び机の上に零れそうになった大きなため息が、寸でのところで再び勢いよく口の中に逆戻りした。
突然後ろから聞こえた声と肩に置かれた手に、大げさに体が跳ねて、机の上に山になっていたファイルがガサガサと勢いよく雪崩れ落ちる。その様子に、ああああ…!と頭を抱えていると、横からクスクスと笑われた。


「…春っち…。」


恨みがましそうに名前を呼べば、呼ばれた人物は特に悪気もなさそうな顔で笑みを浮かべたままこちらを見る。


「相変わらず、大変そうだね。」
「…今まさに机の上も大変なことになってるけどな…。」
「もうお昼だから降谷くんと3人でご飯食べようかと思って呼びに来たんだけど…何回呼んでも栄純君返事してくれないから。…そんなに深く何考えてたの。」
「…御幸先生のいやがらせが最近エスカレートしてるのに悩んでたんだよ。」
「…作家で悩むのは編集の宿命だよ。」
「それは分かってる…。」


けどなぁ…と再びため息。
雪崩れたファイルはなんとか元の形に戻して(元々結構な割合で既に倒れていたからもうどうでもいいや。崩れてなきゃ。)、そのままべしょりと机の上に伏せた。
その横で、小さく息を吐いた春っちが、机に少し腰をもたれさせて不思議そうに口を開く。


「別に仲が悪いわけじゃないんでしょ?…栄純君、よく御幸先生のところに行ってるし。」
「だってそうしねぇと、あの人いつか普通に死んでそうなんだって!」
「あはは。…でも栄純くんもすごいよね。」
「…?何が?」
「だって、いくら仕事とはいえ…、…御幸先生から原稿取り上げて、その上身の回りの家事までやってるなんてさ。」
「そりゃ仕事だし…、…それに見合った給料は貰ってるしな。」
「…ふうん。」


なんだか意味深な声を春っちが漏らすから、少しだけ心臓がドクリと跳ねた。
それに気付いているのかいないのか…、いつもは前髪で見えない表情を、机に伏せた顔を横に向けてこっそり覗き見たけれど、よくわからない。
降谷くん待ってるよ、と促されたから、おう、とだけ返事をして立ちあがる。


(…そうそう、給料貰ってるわけだし。)
仕事だし、さぁ。













「沢村ー。なんか飲む?」
「いらね。だるい。めんどい。疲れた。御幸ウゼェ…。」
「ははっ。言いたい放題!」


カパッと音を立てて開けられた小さめの簡易冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取り出した御幸が、軽快な音を立ててその蓋をあけて飲み干す。
それを軽く一瞥した後、俺はだるい体をもぞもぞと動かしてシーツを肩まで引っ張り上げると、そのまま頭まですっぽりとかぶった。


「そんなにだるい?」


ペットボトル片手にベッドに腰掛けて、ガシガシと頭を掻きながら御幸が言う。
物心ついた時から運動の「う」の字もしたことのないくせに、しっかりと付くところには付いたしなやかな筋肉が乗った体を惜しげもなく晒しながらベッドに御幸が手を突けば、その高級なスプリングが小さく軋んだ。
女の子なら悲鳴の一つでも上げそうなシチュエーションと人物ではあるけど、生憎俺は男だし、敢えて対抗してみせるなら御幸は半裸だけど俺は今完全に全裸だ。…まぁ、どこに競ってるかは分かんねぇけど、とにかく負けてない。


「誰かさんが遠慮なく2度も3度も盛りやがるからだろーが…。」
「え?違う違う、正確には俺は4回。沢村は俺より1回多いからー…」
「…っ、んなことわざわざ言わなくていい!」
「誤字脱字には厳しい俺です。」
「世の中には大体って言葉かあんだよ。」
「俺、曖昧とか中途半端って言葉嫌いなんだわ。」
「…普段の自分の生活が思いっきり中途半端だらけじゃねぇかアンタ…。」


ごろりと寝返って背中をベッドに付けたら、可愛げのない鈍痛が体を走った。
それに思わず眉を寄せるけど、寝転がるベッドが高い上に広いキングサイズのベッドだから、まぁいい。
御幸先生は自分のことには無頓着だけど、その割には先生の周りには結構上等なもんばっかり揃ってる。その一部を揃えたのは誰でもない俺だったりするんだけど。今寝ているベッドも、俺が編集になるまではソファで適当に寝ていたという御幸先生を引っ張って買い物に行かせてなんとか買わせたもんだったりする。しこたま面倒臭そうな御幸先生だったけど、体くらい大事にしてください、と言った時、妙に嬉しそうな顔になって、店にある一番デカいベッドお願いします、と店員さんにご注文。

…作家ってのはどうしてこう変なヤツが多いんだと思った。(まぁ正確には、担当すんの御幸先生が初めてなんだけどさ。)


『でも、栄純君も凄いよね。』


シーツを被って真っ暗になった視界がじんわりとぼやけて、今日の昼間に春っちに言われた言葉が頭の中に浮かんだ。


『いくら仕事とはいえ…、…御幸先生から原稿取り上げて、その上身の回りの家事までやってるなんてさ。』


給料貰ってるから、って確か答えたはずだ。
それに嘘は無い。
でも。


(…やることヤっちまってるしなぁ…。)


流石に、担当してる作家とこんなことになってるなんて言えないけど。苦笑したらまたズキリと腰が一度痛んだ。



御幸先生と関係を持ったのは、確か先生を担当し始めて1年くらいしてからだったと思う。
きっかけは別になんてことのないことだった。

その頃にはもう俺は、この人が一人では生きていけない人だということを痛いくらい理解してて、仕事以外の時は大抵御幸先生にひっついてた。何かあって原稿に差し障られても困る。…そういう“正当な理由”もあったし。
今までどうやって生きて来たんだと言えば、美人なお姉さんがかわるがわるになんとかしてくれたんだと言う。アンタ一回死んで綺麗になったほうがいいんじゃないのか、と思ったことは内緒だけど、料理くらいは出来ますよ、とついうっかり言ってしまったところから徐々にエスカレート。
結局料理に掃除に洗濯、無駄に多い花の世話まで俺の仕事になっていて、必然的に先生の傍にひっつくことになってしまった。

そんな生活をしている時、珍しく疲れてた先生が、俺に手を出したのが初め。

それからはなんかもう、ズルズルと。
気付けばそんな生活と一緒に、編集生活もそろそろ3年目に突入してた。
何も変わらないし、別に気にもしなかったけど。
…最近、少しだけ思う。

(このままで、本当にいいのか?)

今更だと笑われるかもしれない。
けれど、俺は少し、踏み込み過ぎたんじゃないか、って。
来てはいけないところまで来てしまったんじゃないか、って。
既に何かが狂って、警報すらならないくらいの距離まで。

だってどう考えてもこんなの、“編集”の域を超えてる。


「…御幸さ…。」
「うん?」
「…最近多くねぇ?」
「何が?イくのが?」
「アホ。…回数だよ。頻度。」


力の入らない足をシーツの中で動かして、ベッドに座る御幸の背中を蹴ってやった。
この口を開けば下劣な発言をする男が、大勢の女の子の涙を誘う純愛小説を書く作家だなんて絶対誰も信じねぇだろ。


「…そーか?別に変わんなくねぇ?」
「変わってる。…昔はそんなでもなかったじゃねぇかよ。多くても、隔週とかで…。」
「俺もまだまだ若いってことだって。」
「だからってさすがに、3日も開けずにこんなの…。」
「…お前が仕事じゃない日くらいは選んでるつもりだけど。」
「けど、御幸には仕事があるだろ。」
「手は抜いてないし。」
「締め切りギリギリだし…。」
「でもなんだかんだ言って守ってるだろ。」


問題ないとでもいうように御幸が立ち上がる。そのままどこかへ行って、またすぐにベッドに重みが戻ってきた。そのあと、カチッと音がしてフー…と息を吐く音が聞こえた。


「…煙草も増えてるよな。」
「作家ってのはストレス貯まる職業なんだよ。」
「俺だってアンタ相手に結構ストレス貯まるんすけどね。」
「はっはっは、…仕方ねぇじゃん。俺がまともに関わる人間なんてお前くらいしかいねぇし。ちょっとは我慢しろって。」
「…彼女とかいねぇの。」
「いねぇよ。…つか、ほぼ毎日ここに来てるお前が言うの?」


まぁ、確かに今の御幸に女っ気なんてからっきしだけど。
編集始めたころはまだ見えた女の影も、今やどこ吹く風。ここ最近浮ついたことは何一つ聞かないのも気づいてた。
プライベートまで詮索するつもりもないから特に聞かなかったけど、どうやら本当に女はいなかったらしい。


「別に、居なくても構わねぇし。」
「なんでだよ、御幸一人じゃなんも出来ねぇじゃん。」
「だってお前がいるし。」
「…俺はアンタの家政婦じゃない。」
「んなこと分かってるよ。」


じゃあ何だ、とは聞けなかった。
よかった今がシーツの中で、と変な安堵を覚えながら、今度は御幸に背を向けるように横向きになった。


「…気が済んだなら、仕事してください。先生。」
「なんだよ、もう編集モード?」
「モードも何も…俺は先生の編集ですから。」


ああこの言葉を俺は誰に言ってるんだろう、そんなことを考えて自分を一人嘲笑した。
口だけで笑みの形を象る。御幸先生は、何も言わない。

フー…、再び煙草の煙を吐き出す音だけが耳に響いた。


「沢村。」
「…なんですか?」


俺が言うが早いか、突然御幸が立ち上がってベッドがふわりと浮いたかと思えば、今まで纏っていたシーツをはぎ取られた。
あまりに一瞬のことで、驚いて声が出ない俺を見下ろした御幸の表情からは何も読み取れなくて、俺はただぽかんと間抜けに口を開けて一糸纏わぬあられもない姿のまま、御幸の眼下に晒される。


「着替えろ、沢村。」
「は?」


意味が分からなくて短く問い返したけど、返ってきたのはまたもや意味が分からない言葉だった。



「出かけるから。」



















視線の先には、見渡すばかりの人口の星が移る大パノラマがあった。


「…ワァ、キレー…。」
「感情が籠ってないんですけど。沢村サン。」


その大パノラマを前に並ぶ、いい年した大人の男二人。ちなみに温度はただ今9度。コート無し。
カチカチカチカチ。
さっきから奥歯が信じられないくらい高速で、人間業じゃないかみ合わせを実現してる。


「気持ちもクソもあるか!!寒い!凍える!死ぬ!!!」
「大丈夫、本当に死にそうになったら俺が人肌で温めてやるから。」
「今はアンタのその変態発言に突っ込む元気もねぇよ…!!」


寒いといいながら手を擦り合わせる御幸が信じられない。寒いどころじゃない、凍える、っていうんだこれはと言葉を訂正してやりたいけど、唇同士がくっついたみたいで離れてくれなかった。
突然出かけると言われて連れ出されたはいいけれど、まさか外に行くなんて思ってもみなかったから油断した。せめて一言でも言ってくれたらコートくらい着て来たのに。
薄いシャツ1枚で冬の深夜に夜空の下は正直何の拷問だろうかとしか思えない。


「っつーか…!突然なんだよ、こんなところ連れて来て!!」


こんなところ、と俺はぐるりと自分たちの周りを顔を動かして示した。
そこにあるのは闇夜に溶け込んで殆ど何も見えないけれど、ポツポツとある電灯だけが黒の中にいくつか浮かんでいるだけの殺風景な景色と、さっきまで見ていた大パノラマの夜景だけだった。
御幸のマンションから車で少しだけ走ったところにある高台。
何度か昼間に通ったことはあるけど、特に何もなくて…そう、強いて言うなら見どころはこの一面に広がる街の明かりが作り出す絶好の夜景スポットであるということくらいだと思う。

そんな、何も無いところに一体何の用だっていうんだ。
…しょうもないことだったら暫く家事放棄してやる。

そんな決意を胸に、とりあえず寒さを和らげようとズボンのポケットの中で手を擦りながら俯いた。


「…ここ、さ。」
「ああ…?」
「俺、煮詰まるとよく来んの。一人で。」
「は…?」
「こういうところに連れてくるとさ、女は喜ぶだろ。感動した、とか言ってさ。…それで、そういう話を書いて、愛の言葉を囁かせて、…そうすれば、読者は言うんだよ。感動した、って。」
「…。」
「…デビューした時、俺は俺が好きなものを好きなように書いて生きてく、って思った。けど、現実は違うな。書きたいものを書いてると思ってたはずが、気付いたら、“ビジネスを優先してる自分”がいるんだって気付いたんだよ。」
「…みゆき、せんせ…。」
「自分の感情とか思想とか、そういうのは二の次。俺の作品は、薄っぺらい笑顔張り付けて人前に立ってる自分に、そっくりだと思った。それが、あの対談の日。」
「対談…。」


どれだ、と一瞬考えたけど、答えはすぐに見つかった。
あの日のことだ。間違いない。
俺が初めて、作家の御幸一也に出会った日。


「キラキラした、犬みてぇな目でこっち見てるやつが居んなぁ、と思ったんだよ。」
「…もしかして、もしかしなくともそれは俺のことですかね。」
「お。正解。よくわかったな。」
「…バカにしてんのかよ。」
「ちげぇよ。…お前もさ、他のやつらと一緒だと思った。どいつもこいつも、作家の俺に変な幻想抱いて、現実見りゃすぐに、イメージと違う、とかなんとか失礼なこと言って離れてく。」
「…。」
「純愛、とかなんとか言われて祭り上げられてるけどさ、結局俺はそういうの、全く信じてねぇんだよ。捉えどころのない愛の言葉より、即物的な行為の方がずっと分かりやすくて信じられる。…こんな奴が純愛小説だぜ。笑えるだろ?」
「御幸…。お前、」
「…けどまぁ、それでよかったんだよ。別に不自由もなかったしな。」


ふ、と御幸が息を吐いたら、寒さのせいか少し白く空気が色づいた。


「けど、お前は離れなかったな。俺の傍から、この3年、ずっと。」
「そ、それは…!俺がいねぇとアンタ、死にそうだって思ったから…!」
「うん。…今の俺は、お前がいねぇと多分死ぬわ。」
「…っ、アンタがそんなんだから、!だから俺は、心配で…!」


声を張り上げて、横に立っていた御幸にバッと顔を向けたら、そこには思いもしないほど穏やかな御幸の笑顔があった。


「沢村がいねぇと駄目になるくらい、俺はお前が好きだよ。」


ヒュッ、と喉を通った空気があまりにも冷たくて、喉が焼けるかと、思った。
体が固まって動かない。…けどこれは決して、寒さのせいじゃない。

御幸が笑ったまま、手を伸ばす。その手は俺の頭を一度柔らかく撫でて、その後すぐ離れて言った。

普段から、人をからかうようなことばかり言ってきて、どこまで本気でどこまで冗談かわからないようなことばかりして、言って…、そんな御幸に振り回されて、嫌だ嫌いだ面倒だと繰り返すけど。

ドク、ドク、と、まるで止まっていた心臓が動き出したみたいにポンプが活発に跳ねる音が、静かな空間に響く。


「…真っ赤。」


嘘つけ。こんな暗闇で、顔だってほとんど見えねぇくせに。


「アンタは…、…小説家、だろ…。」


絞り出した声が掠れていたのは、…寒さのせいってことにしといて欲しい。
ふっと御幸が苦笑する空気が伝わってきた。


「で、俺はその編集だー、とか言うんだろ?」


さっきまで感じていた寒さはどこに行ったのか。
息をする度に肺に冷たい空気が流れ込んでいって、体の内側だけひんやりと冷たくなった。


「…俺、最近考えてた。」
「うん。」
「俺の仕事は編集で、アンタからしっかり原稿貰って、それを世に送り出すのが仕事。」
「うん。」
「だから、アンタの作品が良くなるためなら何でもするし、必要なら家事だってなんだってしてやる。…そう思って今までアンタの世話してきたんだ。」
「実際、沢村が来なかった日に俺試しにキッチン立ってみたんだけど、カップ麺の作り方すらわかんなかったし。」
「…洗濯機は泡だらけにしてたしな。」
「次の日来た沢村にいろいろ怒られたっけ。」
「怒ったっていうよりもう殴ったし蹴ったし。」
「はは、…お前って本当暴力的だよなぁ。感情的というか。単純というか、バカというか。」
「お前にバカなんて言われたくねぇけど。…でも、だけどさ、ちょっと…行き過ぎたんじゃねぇかって思ってたんだよ。」
「…。」
「俺は、御幸に深入りしすぎた。だからもうこれ以上踏み込む前に、戻ろうって思ってた。」


はぁ、とため息を吐いたら俺の息も真っ白だった。


「…なのにお前、…ずりぃよ。」
「んー…、沢村がいろいろ考えてんの、気付いてたしな。」
「本当お前って性格悪い。」
「小説家なんてみんなそんなもんだろ。いつだって頭の中はシナリオだらけ。どうしたらより相手を感動させられるか、どうしたら舞台をよりドラマチックに盛り上げられるか。どうしたら涙を誘えるか…、その辺の計算機より高性能かもな。」


ケラケラと笑う御幸は、数分前に愛の告白を真剣にしてきたヤツとは思えない軽い態度でただ笑っていた。
その横顔に向かって、それでさっきの続きだけど、と続ける。


「…そんな計算高い小説家の癖に、告白は案外ストレートなんだな。」


びっくりした、と言えば、笑っていた御幸の声が止まった。
どうしたんだと思ってそちらを見たけれど、やっぱり暗くてよく見えない。ただ、なんだか驚いているみたいなのは見て取れた。…気がした。

沈黙が、流れる。
俺から口を開くのはなんだか違う気がして、何も言わないし、何も考えなかった。
ただぼうっと、目の前にある夜景だけを見つめた。


「なぁ沢村。」


何分経ったんだろう。
もしかしたらほんの少しかもしれない。けどすごく時間が立っていたのかもしれない。
昼間と違って、時間経過を映さない真っ暗な黒い鏡の空は相変わらず闇夜が広がるだけで、全く時間経過が感じられなかった。
そんな中、ポツリ、と御幸が俺の名前を読んだ。
だから、そっとその目を見上げる。


「愛してるってどれだけロマンチックに伝えられても、それが相手に伝わってなかったら結局はなんの意味もねぇんだよ。」


うん、呟いた言葉は御幸に聞こえただろうか。
…穏やかに微笑んでるようだから、もしかしたら聞こえてるかもしれない。


「だから、告白はあれで正解だと思ってる。」
「…お前の小説の中だったら批難されるだろうな。」


そもそもこんな夜中に、相手をシャツ1枚で寒空の下に連れ出す時点で、色々と非常識だ。
しかも、御幸は生活力のないただの駄目男で、俺はそこらへんにいくらでもいるようなただの会社員の男。ドラマにするにはキャストも、ステージも、ムードも何もかも落第点だよ、御幸。


「それでもいいから、俺の傍から離れんなよ。」
「離れたら死ぬんだろ。」
「うん。」
「…じゃあ、居るしかねぇじゃん。ズリーの。」
「そう、俺ってずるいから。」


近寄って来た御幸に、ふわりと抱きしめられる。その体は服越しでも伝わるくらい冷え切っていて、ああ本当コイツってバカなんだなと思った。
別に話なら、こんなところでなくてもよかったし、部屋から外に出たいなら車でも良かった。
けど、その駄目な奴に付き合う俺も、ただのバカだ。


「ほぼ毎日家事やって、ヤることヤって、…今までとなんか変わる?」
「変わるよ。沢村の恋人が俺になる。」
「それって同時に、俺の恋人もお前になるんだけど。…お前浮気性だからなぁ…。」
「バカ言うなって。お前と会ってから俺は清廉潔白だろ。」
「…どうだか。」
「それだったら一緒に住めばいいよ。そしたら分かる。」
「…洗濯機くらい回せるようになったら考えてやらなくもない。」


御幸の腕の中で、今までと何も変わらないやり取りを交わす。
けど、御幸がどこか嬉しそうなのは間違いないと思う。声が弾んでる。
わかりにくいし、冗談ばっか言うし、からかわれてばっかりだけど、今のコイツは分かりやすいな、と思った。
まぁどうせそれも、明かりの下に戻ればいつものクソムカツク御幸に戻るんだろうけど。

仕方ないから今だけは、なんだかんだ言いながら近づいてきた不埒な唇にも目を瞑ってやることにした。


「ん…、」


冷たい温度が重なる。冷え切っていたのは体だけではないようで、重なった部分からじわじわと熱が溶けて、緩く温まっていく。
少しだけ高い御幸の背に合わせるように地面から離れて、そのままされるがままに身を任させていたら、舌で軽くトントンと唇をノックされて、薄く開いた目と同時に同じく開いた唇の間からするりと入ってきた舌に歯列をなぞられた。
その感覚にビクンと震えた体を抱きしめる腕に力が籠って、そのまま歯を割られて侵入してきた舌に上顎を擽られ、ピチャピチャという卑猥な水音と一緒に、咥内を深く深く蹂躙される。

純愛の欠片もないキスに内心苦笑しながらも、その体を押し返すことはしなかった。


(ああそういえば、…キスするのは、初めてかも。)


深夜の極寒の中、二人して一体何をやってんのやら。
御幸と出会ってからため息の数が増えた気がする。その分幸せが逃げてるのなら、変わりに御幸に責任を取って貰うしかないと思った。


「…っ、ふ、はぁ…!」
「ん、」
「…な、っげぇ…よ…、くるし…、」
「だって沢村が可愛いから。」
「理由に、なってねぇよバカ御幸…。」


乱れた息を戻すように浅く息を吸って、口の端から零れた唾液を手の甲で拭う。
恥ずかしい、なんて言うには俺らの間に初々しさなんて無かったけど、居心地は悪くて顔だけはそらした。
それに御幸が、クスリと笑う。


「両想いになった後にすることなんて一つだよなー。」
「は!?ヤんねぇからな!」
「は!?なんで!」
「いや俺が言いたいそれ!!」
「ふざけんなってお前、ちゃんと順序は踏まねぇと。」
「今更順序も何もねぇだろーが…っ、っておいこら、離せ!」


ひょいっと御幸に腰を掴まれて、気付いた時には足が宙を浮いていた。
そのまま肩に担がれて、じたばたもがいてみるけど、脱出は出来そうにない。
だからどうしてこいつはこんなに力があるんだ…ひきこもり作家のくせに!


「王道ならここはお姫様抱っこで愛の疾走なんだろうけど、こっちのが早いからこっちで。」
「…お前はヤることばっかな…。」
「まぁ否定はしねぇけど。…今日はそれだけじゃねぇから。」
「あ?」
「今日はベッドで、数え切れ居ないくらいお前に俺からありったけの愛の言葉を囁いてやるよ。」


覚悟してろよ、と見えない御幸の声が笑った。


………、勘弁してください。





「とりあえず、締め切り破った時点で別れてやるからその辺よろしく。御幸先生?」




仕方なく担がれながら背中に向けてそう言ったら、ドクンと背中にまで聞こえるくらい大きく御幸の心臓が飛び跳ねたから、俺は夜の静けさの中に響き渡るくらい大きく声を上げて笑ってやった。

とりあえず、部屋についたら、どうやってこの駄目作家から逃げられるかを考えながら。






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