unpredictable skinship

篠崎屡架
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「社員旅行!?…ああ、もうそんな季節だっけ?」
「うん。そう。行く?」
「そりゃ行くけど!…今年はどこ?」


シュルリと音を立ててネクタイを引き抜きながら、目の前でアホ面してスナック菓子片手にテレビを見ている恋人を見下ろして問いかけると、きょとんとした顔で言葉が返ってきた。
そんなアホ面して人の家のソファで我が物顔でくつろぐ沢村を上から見下ろして、第三ボタンくらいまで片手一本で胸元を緩めつつ、そのままひょいっと軽くスナック菓子を指でつまみあげて、自分の口に運ぶ。


「え、別府。」


温泉です。

そう告げたら、え、って声と、俺の菓子を勝手に食うな!という反論が返ってきたけど、シラリとした顔で指についた菓子の粉をペロリと舌で舐めながらそれを交わした俺は、何やらソファで憤慨したようにプスプス頭から威嚇の煙を出しながら菓子を守るように抱えた沢村の頭を、まるで子供に言うことを聞かせるかのごとく撫でる。
すると猫っ毛の黒髪がソファにハラリと散って、そのままサラサラと流れた。


「いやいや、熱海でいいじゃん…。そこは。」


わざわざ遠いところに行かなくても…と不満そうな沢村に苦笑しながら、再び菓子を一つ攫おうとしてやると、今度は気付いた沢村が、さっき同じように菓子をつもうとした俺の指をパクリと食った。


…え、何これ。


含まれた咥内の生温かい沢村の舌の温度を指先から感じる上に、時刻は既に仕事終わり。秒針の針はてっぺんで交わろうとしているような時間だ。辺りが静かだと、湧きあがってくるものもあるってものだ、と一人自分を納得させるように心の中にて数秒で算段した。


まぁつまり、とりあえず誘われてるってことでオッケーだよなぁ?沢村?


というわけで、勢いよくソファの背もたれから沢村の首に腕を回して抱きついたら、奇声にも似た叫び声が聞こえたけど、気にしない気にしない。…元々、懐に飛び込んできた沢村を俺がただで返すわけねぇし、沢村だって嫌よ嫌よもなんとやら、だろ?

そう言ってやったら今度は頭突きが飛んで来た。相変わらず感情と行動が直列してるやつだよなぁ…。



まぁとにかく、今年の社員旅行は別府らしいですよ。沢村クン。











「大分ー!別府ー!!温泉ー!!!」
「おいこら恥ずかしいからあんまり騒ぐなよ、バカ。」
「だってなんかテンション上がるじゃん!大分だぜ、別府だぜ、地獄温泉だぜ!?」
「…お前は修学旅行中の中学生か。バカ。」
「…その語尾に必ずつけるバカっていうのやめてくれます?み・ゆ・き・さ・ん!」


年に一回の会社の慰安旅行。
この不景気の折、中々の売り上げを上げてる俺や沢村の働いている会社は、「働いている側も楽しくなければいいものは作れない」っていう社長の経営方針から、毎年どの部署も結構豪勢な社員旅行が施行される。
大手っていうほど大手でもねぇし、社員数もそんなにいねぇけど、さすがに海外とまでは行かない。が、今年の温泉旅行も近場で済ませず、大分まで飛んじまうところにその辺が現れてると思う。


入社2年目の沢村は、2回目の社員旅行。
そんで、一年先輩の俺は3回目の社員旅行。
何で休みの日にまで好き好んで会社のヤツらと旅行に行かないといけねぇの、と思う俺(どうせなら沢村と二人で旅行のほうがいろいろと美味しい。)とは反対に、ガキンチョ沢村はこういう“みんなで仲良くお出かけ”みたいな行事が好きみたいで、昨日の夜は修学旅行前の中学生かと突っ込みたくなるくらいの浮かれようだった。
プリンはおやつに入るのかと聞いてきたときは、熱でも測ってやろうかと思ったけど。(その前に、おやつじゃないと言えば何にカテゴライズするつもりだったのかちょっと気になる。)
何がそんなに入ってるのか、必要以上に膨らんだ旅行バックを抱えて、鞄に抱っこされてるみてーな沢村は、一歩進むごとにきょろきょろとあたりを見渡して目を輝かせる。
これが24歳だっていうんだから、世も末だな。


「あんまりはしゃいでると置いてかれるぞー。」
「ぬお!?」
「団体行動乱す奴は最悪ー…だろ?」
「わ、わかってる!やっと到着してちょっと浮かれただけだ!」


いやいやお前、昨日から結構な勢いで浮かれておられますけど。

今にも鼻歌歌いながらスキップでもしそうな沢村に苦笑を一つ。
とりあえず、こけるなよ、と20代ももうすぐ後半突入な男に向かって叫んでやったら、べーっと舌と指付きで憎たらしい顔が返ってきた。(だから、お前何歳よ、沢村。)
…でもそんな様子も可愛いと思ってしまう自分が一番どうなんだろうな。


「沢村。」


名前を呼べば、小さな背中が振り返る。


「…気をつけろよ?」


いろんな意味で。

首を傾げた沢村に、(沢村いわく胡散臭いらしい)笑顔を向けてやったら、本能的な何かを感じた動物みてぇに一歩後ろに下がったから、今度は腹から笑ってやった。













宴会、酒、大騒ぎ、そして何より豪華な懐石料理。

(…なんてまぁ沢村が好きそうなもののオンパレードだこと。)

グラスに注いだ日本酒を少し口に運ぶ。
別に俺だって酒もうまい料理も嫌いじゃないし、別に宴会の席も嫌いじゃない。
むしろ既に酒がまわって無礼講になってて別段気を遣わなくてもいい酒の席だから、気楽でいれる。こういうところはうちの会社のいいところだとも思うし。何より飯が美味いし。酒が美味い。

まぁ少しだけ不満を言うならば、宴会開始当初は隣で大人しくしていたはずの沢村が完全に人の波に飲み込まれて大騒ぎを始めたことくらいか。
元々どこか無条件に人が集まる沢村の周りには、こういうときだって例にもれず人が寄ってくる。
それはアイツのいいところだと思うし、俺もそういう沢村が好きなんだけど。
けどまぁ、ちょっと面白くねーかな、とか思ったりもする。
宴会前に風呂に行くって意気込んでた沢村を止めて正解だった。風呂上がりの浴衣であんなに大騒ぎされたら、ちょっとどころかだいぶ面白くなかったと思うし。


「みーゆーきー!」


一人そんなことを考えながら酒を飲んでいたら、突然自分の名前を声が聞こえたかと思えば、後ろからずっしりとした重みに襲われた。
見なくても分かる。絡み酒といえど、俺にこんなことをしてくるのなんて一人しか思い当たらない。
案の定そちらに顔を向ければ、さっきまで他の奴らとプロレス技かけあったり酒を浴びるように飲んでた張本人が、いつの間に戻ってきたのか俺の頭にまとわりついてた。
しかも呂律がほとんど回ってない。
酔ってんなぁ…とどこか客観的に冷静に思いながら名前を呼んだ。


「…沢村。」
「なぁに一人でしっぽり酒飲んでんだよー!付き合いわっるいのー!」
「…はっはっは…お前はとてつもなく楽しそうデスネ…。」
「おー!俺はいつでも最高潮だ!!」
「…大丈夫?血液全部酒にでもなっちまったの?それとも元からアホなの?…ああ、元からか。」
「おいこら一人で何呟いてんだよ、やだもう御幸のむっつりー!」
「とりあえず俺一応お前からすれば先輩なんですけど。どうなのこの言われ様。もう一回新人教育し直さねぇと駄目?」


うむうむ一人で唸ってる沢村はむちゃくちゃ奇妙だったけど、なんだか面白いからほうっといた。
周りの奴らもだいぶ酒がまわってるのか、普段俺をちょっと敬遠してるようなやつまで、もっとやれやれと沢村をけしかける。

そりゃ俺も、他の奴らならとてつもない酒の席での悪乗り(何が楽しくて男にまとわりつかれなくちゃなんねーのよ)だけど、相手が沢村なら話は大逆転。


(…でもそろそろ、ちょっと嫌な予感するわ。)


学生時代、高校野球で培った俺の勘は結構鋭い方だと自負してる。
あ、と思った時には俺に抱きついてる沢村が、大口開けて笑いながら俺に抱きつく腕にぎゅうぎゅう力を入れて、大声で叫んでた。


「えー!!でもその前に御幸は俺の彼氏じゃんかー!」


ピシリ。

今確実に一瞬酒の席全員の空気が凍った気がした。約一名を除いて。
誰かの、え?って声と、沢村のふははははって甲高い声が静かになった部屋に響いた。

(はは…!!こいつ本物のバカだ…!!)

酒が抜けた後大絶叫するのが目に見えて、俺はもうなんかいろいろ通りこして絶対王道を裏切らない沢村にいっそ賞賛の拍手をしたくなった。

さっきまではやし立ててた周りの奴らも、急に言葉少なくなる。冗談だろ?って探り合う空気が伝わってくるけど、誰もそれを口にしない辺り、いろいろと勘繰られてるみてーだなぁ…。

まぁ仕方ない。
俺にも沢村にも、色恋の話がめっきりないことを周りが結構下世話な噂話をしてるのを俺は知ってる。
まさかお互いがそういう関係であると勘繰ってるやつはいねぇだろうけど、“そういうタイプの人”なんじゃねぇのかって。…まぁつまりは、そういうこと。

そんな中で、明日から会社でネタにされること間違いなしの大事件を自分で引き起こしやがりましたよ。コイツ。
しかもその張本人はわけがわからず俺の上で首を傾げるだけ。
相変わらずの間抜け面がずっしり重いから、ちょっとだけ頭をゴツンとその顎にめがけてぶつけてやった。
いてぇ、と顔を押えて沢村が吠える。

このまま放っといてもいいけど、折角の席が興ざめすんのもあれだし、沢村がこんな状態で俺に矛先が向くのめんどくせーしなー…ってことで。


「酒の席での冗談にしちゃ、悪くねージョークだわ、沢村。」


にっこりと笑って、ちゅーでもしとく?と首を傾げてやったら、さすがの沢村も反射的に俺から離れた。(どうやら酔っていても、こういうところは本能的に何かを察するらしい。マジで動物っぽい。)
その沢村の反応に一瞬で空気が緩んで、何やってんだよ沢村ーとか、いいじゃん御幸さんの唇なんて貴重だろーって声と笑い声がドッと上がる。
どうやら大半は沢村の悪乗りだと思ってくれたらしい。

一個貸しな、沢村。
…後で数倍にして返して貰おうと勝手に決めて、そのまま沢村を頭から離してその背中を押した。
すると、やいのやいの言いながら他の奴らが酔っぱらった沢村に絡む。

けど、なんかもう既に目にとろんとした色を浮かべた沢村は曖昧な返事しか返してなくて、完全に限界だってことが分かった。
今にも立ったまま寝そうだ。いや多分こいつらなら寝るな、絶対寝る。


「…ったくもー…本当仕方ねーな。」


酒に呑まれるのは学生までにしとけよ。


「沢村つぶれちゃった?」
「弱いくせによく飲むからなー。こいつ。」
「どうする?ほうっとく?」
「誰かー、沢村部屋に運んでやってー。」


周りの奴らも気付いたのか、そんな声が上がりだしたのを見て俺も重たい腰を上げた。
ひょいっと手を上げてにこにこ笑いながら、既に半分夢の中に旅立ってる恋人のところへ行く俺。
なぁ、すっげー出来た“彼氏”だろ。俺って。


「ハーイ、俺行く俺。」
「え!?御幸、さん!?」
「御幸が!?いいの?」
「うん。俺もそろそろ部屋戻ろうと思ってたし、ちょうどいいかなって。だめ?」
「いや、お前がいいならいいけど…。」


ひょいっと潰れて床にぺしゃんこになっている沢村の腕を引っ張って立たせれば、あまりの酒臭さにちょっと苦笑しつつ、すぐにへろへろと倒れそうになる体を引っ張り上げた。
担いでいってもいいけど、コレ。
平和そうに寝息とか立て始めてる呆けた顔見てたら、なんか散々巻き込まれたのは俺の方だし、タダで助けてやんのもちょっと癪だなァ…とか思ったりして。

こういうときに無駄に発揮される自分の悪戯心。
こういうところは沢村にガキガキ言えねぇなと思うんだけど、沢村がからかいがいがあり過ぎるのが悪い。

引っ張り上げた体を片手でひょいと持ち上げて、そのまま膝裏に腕通して、垂れる腕は首に回してやる。…本当飲み過ぎ。忠告してやったんだけどな。


「さて。じゃあとりあえず、…邪魔しないでな?」


いわゆるお姫様抱っこで抱えた沢村の体を落ちないようにしっかりと支えて、宴会場に向かって捨て台詞を一つ。
その瞬間再び水を打ったように静まり返った場内を背にピシャンと襖を閉めた瞬間、後ろからいろんなものが混ざった悲鳴が聞こえた。

…はは、沢村悪いな、やっぱしばらく会社でのネタ決定だわ。















「む、…、ぅ…?」


ぷは、と息を吐くのと同時に濁っていた意識が少しずつ戻ってきて、重たい瞼をゆっくりと持ち上げたら、そこにあったのは知らない天井だった。
どこだ、ここ?と頭で考えるのより先に、ずっしりと感じる体の重さ。

(重…っ!つーか、痛え!!)

なんだこれ。体…つーか、頭!
意識は覚醒したはずなのに、その瞬間感じたとんでもないほどの倦怠感に、一瞬意味が分からなくてパニックになった。
何があったんだっけ。っていうか俺なんで寝てるんだっけ?つーかここどこ!?

疑問ばかりがはっきりと頭に浮かぶのに、起き上がれない。
なんだろう、これ。


「あ、起きた?」


わけわかんなくて必死に焦りながら思考を巡らせてみてたら、ピシャンって音と一緒に聞こえた見知った声。
ふっと首を曲げて音のした方に目をやったら、缶ジュースを抱えた御幸が入ってくるのが見えた。その後ろには部屋のドアらしい襖。
そこでやっと、ここがどこかの部屋だってことに気付く。


「…み、…ゆ、?」
「うわ、すげー声。どんだけ飲んだんだよ、お前。」
「ここ、どこ…、…おれ、」
「俺の部屋。飲み過ぎたお前を俺が運んで来たの。…覚えてねぇの?」


コクリと一つ頷いたら(やっとちょっとだけ体が動かせた)、呆れたようなため息と御幸が近づいてくる足音。
敷かれた布団に寝ているから、畳の音がダイレクトに体に伝わってきた。

ゆっくりとした動作で、俺の横に御幸が座り込む。
衣擦れの音がして、そっちにちょっとだけ頭を動かした。


「起きれる?」


首を小さく左右に振る。


「…ったく、ハメ外し過ぎ。反省しろよ?」


今度は、縦に。
そしたらまたため息吐かれた後に今度は頭を撫でられて、ちょっとだけ冷たい手が火照った体には気持ちよくて目を細めたら、そのまま何度か髪を梳かれた。

…っかしーの。普段はウザったいスキンシップが、なんか今日は優しく感じる。
旅行みたいな特別な環境下だとやっぱなんか違ぇのかな…なんてぼんやりと考えてたら、俺の頭を撫でる御幸の手…っていうより、その手の先に揺れる袖元に気付いて、ゆっくり手を伸ばす。


「それ…。」
「ん?」
「…浴衣…?」
「ああ、これな。お前ずっと寝てるから、一回風呂行ってきた。」
「あ、そ…。」
「本当声ガラガラなー…。…つーか、浴衣なら俺だけじゃねーよ?」


ホラ、と言われてちょっとだけ布団を剝がれる。
そこには見覚えのない旅館特有の大量生産チックな薄っぺらい生地。横にいる御幸と同じ柄の白地に紺のラインの入った浴衣を着た自分の体があった。

…あ、れ?
…俺、確か宴会に行く前は普通に私服だったはず。
…ってことは。

ぶあっと一気にさっきまでまどろんでた思考が血の気と共に戻ってきて、声がかすれてるのも一瞬忘れて、叫び声をあげた。


「勝手に何してんだよ…!」
「えー?だって寝苦しそうだったからさ。俺の優しさだって、優しさ。」
「いらねーこと、すんな…!」
「勝手に酔い潰れて俺に介抱されてた奴がよくいう。」
「う…。」
「しかも、お前が起きるかもと思って、せっかくの温泉だって碌に堪能せずに急いで上がってきてやったのに。そんな優しい優しい恋人の行為に、いらねーとか言う?」
「うう…。」
「あーあ…これでも気遣ってやったつもりだったんだけどなー…。」
「…そ、それは、悪かっ…!」
「お前が寝苦しそうにしてたから親切心から着替えさせてやっただけなのに何か起きて早々責められるし。なんでだろ、俺いいことしたはずなのにー。」


チクチクと御幸の言葉が痛い。
言われると反論できないような言葉に、言葉に詰まった。


「ま、いいけど。もういろんな場所見知ってる仲なのに、未だ裸見られんのが恥ずかしいっていう初々しい沢村が俺は大好きなわけだし?」


横に座っていた御幸が腰を持ち上げる。
だいぶ動くようになった首を横に向けて、そのまま視線で御幸を追えば、そこには嫌な予感しか感じさせない笑み。
なんだ、と思ったら少し立ちあがった御幸が、布団に寝てる俺の腰元を跨いで両膝をつけた。

え、ちょ、待って、何これ。


「…浴衣って、さぁ。」


ポツリ。御幸の言葉が降ってくる。俺は横にした首がなかなかまっすぐに向けられなくて(これは酒のせいじゃない。向けられないっていうか向けたらマズイ気がする本能的な何かだ。)、恐る恐る小刻みに首を揺らして御幸の方を見た。


(ひーーー!!)


俺を見下ろすその目は、完全によく見知った捕食者の目。
社員旅行だからって安心してたのに、そうだ、この男に常識とかそういうのは通じねぇんだったと今更ながらに思いだした。


「布一枚ってのは服と変わんねぇのに、なんでこんなにムラムラ来んだろうな?」
「し、知る、か!つーか退け!重い…!」
「やっぱ前開きだから?全体的に作りも大雑把だしさ。」
「あの、…お前、話聞いてる…?」
「服以上に脱がせたくなるんだよなー。着せるのも楽しかったけど。」
「変なこと言いながら人を剥くんじゃねー!!」
「この薄い布剥いだら沢村のさわり心地のいい肌があると思うと想像するだけでくるんだけど、どうしたらいい?」


ああ駄目だ。この変態が俺を無視しだしたらそれは赤信号のサイン。
今すぐ走って逃げろと俺の中の大事な部分が告げてる。
誰だ、さっきちょっとでもこの変態を優しいとか思った奴!!!

その言葉通り、眼鏡の奥で瞳に光を宿らせた御幸が、ゆっくり俺の頬を一度掌で撫ぜた後、どこかうっとりと恍惚とした表情で微笑んだ。


「み、御幸…?」
「こう…さ…?」


その声はしびれるくらいに甘い囁きなのに、なぜか俺には断罪の一声のようにすら聞こえた。


「浴衣の帯緩める瞬間って、なんか分かんねーけど異様にドキドキするよな。」


シュルリ。
耳に着く嫌な音を立てて御幸が俺の腰から一本紐を簡単に抜き去る。
しかもその目は、スイッチが入ったときの御幸の変な目で、俺は本能的にも経験的にもヤバイってのがひしひし伝わってきたけど、俺の体はただ今機能停止中。

指に絡めて腰紐を抜き去って御幸は、それを見せつけるように口元に持って行って、ちゅっ、と小さなリップ音を立てて軽いキスを落とした。
そのキザな仕草に、背中が泡立つみたいなゾクゾクした何かを感じたけど、そんな寒いくらいの仕草も絵になるんだから、これだからイケメンってやつはタチが悪い。

そのまま浴衣の合わせ目を指でなぞられて、最後へそのあたりでひっかけられたら、パラリと薄い布が左右に開いて落ちた。
「…ご開帳、ってやつ?」なんてクスリと笑われれば、かっと頬に一気に熱が上がる。
もし俺の体が自由だったら、一発で御幸の眼鏡をへし折ってたかもしれない。


「ふっざけんな変態…っ!!」
「こら、あんまじたばたすると更に肌蹴るぜ?そんなに脱ぎたいなら手伝うけど。」
「ちょっ、ちげぇ…っばか、やっめ…!」


なんかもう色々と限界突破した俺は、重たくてだるい体をどうにか動かして抵抗する。
けど、ただでさえ元々御幸の方が腕力だって強いんだから、こんな時に叶うはずもない。
とりあえず肌蹴る浴衣をどうにかしたくて腕を伸ばしたら、その手も簡単に纏められて枕に埋められた。…ああ俺、すげーピンチ。

片手で俺の両手を束ねた御幸が、ふと何かに気付いたみたいにさっき抜き去った腰紐を見て、ニヤリと笑った。


「み、御幸…サン?」
「沢村、俺今、すげーいいこと思いついた気がするわ。」
「奇遇だな…俺も今、すげーいやなこと思いついた気がする。」


おいこらマジでやめろよこの変態。

そんな俺の制止の声なんてなんのその。



「なぁ、沢村、ご褒美頂戴?」


御幸の手が、まるで助けを乞うみたいに天井に伸ばした俺の手に指を絡めたその瞬間、俺は目を覚ましたことを心底後悔した。
そんで次の瞬間には、折角別府まで来たのに、多分残念ながらまったく満喫出来ないであろう温泉に心の中で泣いた。














次の日は結局部屋から出れなくて、腰は痛いわ腕は擦れるわ…仕方ないから御幸の部屋についてた露天風呂(っていうか俺の部屋なかったと思うんだけど。なんなのこの違い。お前だって俺と1年しか違わねぇのに。…そういや部長(女)は御幸がお気に入りだったな。)に入って、タオル巻いてうきうきやってきた眼鏡を水圧で吹き飛ばしてやったらまた仕返しを受けた。

うう…俺って学習しねぇ…。


そんでなぜかその次の日の帰りのバスとか、明けた日からの会社とかで、みんなが俺のこと指さしてはなんかコソコソ言ってるから、御幸に問いただしてみたんだけど、結局何も分からないまま。

なんかもう…いろんな意味で散々だ。










「ねぇねぇ聞いた?御幸さんと沢村さん。」
「聞いた聞いた!旅行の話でしょー?」
「あれ、本当なのかな?本当なのかな?」
「あたし絶対本当だと思う!!」
「キャーー!!」



世の中には知らない方がいいことのほうが多いということを、俺はそれから数日後に身をもって知る。







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