□もう一つの世界で
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「……帰るのかい?」
「ええ…」
 春水はバスローブ姿で、ベッドに横たわっていたが、七緒はスーツ姿で鏡を覗き込んでいた。
「ここからボクと出勤すればいい」
「私の給与ではそんな贅沢はできません」
「つれないねぇ…。ボクの奥さんになれば、ここから一緒に出勤できるって意味なのに」
 鏡台越しに視線が絡むが、パチンとやけに高い音が響き七緒が立ち上がった。化粧が終わり、コンパクトを閉じた音だったらしい。
 スリッパからパンプスへと履き替え、ハンドバックを手に出口へ向かう。


「…七緒ちゃん」
 ドアを開ける手を、春水に遮られる。
「ボク…本気なんだけど…」
「私は一生の不覚だと思っております」
「何故?」
「……雇用主とこの様な関係は私の美意識に反します」
「…ボクは君と公私共にいたいと感じたから、雇ったんだけどな」
「…私は…」
 春水は今二人のいるホテルの経営者で、七緒は春水付きの秘書だ。

 春水は数時間前に七緒を言葉巧みに誘い、酒を飲ませ、自室に連れ込んだ。春水の自室はホテルの一角にある。
 酒の力もあって七緒はさほど抵抗せず、春水を受け入れた。
 だが、七緒はこの一晩の出来事をなかったことにしようとし、春水は本気で口説きに掛かっていた。



「…七緒ちゃん…」
「止めてください…」
「帰さないよ…イエスの返事を聞くまでは…」
 七緒を抱き締め、紅をひいたばかりの唇を奪う。

「…んん…やめ…」
 唇が離れた瞬間に漏れ聞こえた七緒の言葉に、春水は目を閉じ聞かなかったふりをする。舌を捻込み、口紅が取れるほどに、貪る。
「……七緒ちゃん…好きだよ…」
 ようやく唇が離れたと思った時に、耳元で囁かれた。
「…止めてっ…」
「………」
 背筋を這い上がってくるさざ波に、七緒は堪らず首を振った。
 その強い拒絶に、春水は手を離し一歩離れる。
「………」
「………」
 

 居たたまれない程の沈黙に、動いたのは春水だった。
 何気なくのんびりとした歩調で移動し、ドアノブに手を掛けあっさりと回し、ドアを開ける。
「……あ…」
 七緒は呆然とドアを見つめる。あそこに行けば、廊下に出れば全てから解放される。この場から逃げ出せる筈なのに、足は動かない。頭の中では命令しているのに、動いてくれない。


「………ご免よ…七緒ちゃん…」
 立ち尽くす七緒に、春水は優しく声を掛け、そっと抱き締め、頬を拭う。
 七緒は拭われて涙を流していたいたと気が付き、春水を見上げる。
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