Golden Kamuy
□第1話 不死身の杉元
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降り立ったそこは、一面真っ白の銀世界だった。
「さっむい」
開口一番、叫んだ。
隣からも似たような言葉が聞こえ、僕はそちらに目を向ける。
「橙亜! 雪だよ! 冷たいよ!」
「見れば分かりますよ」
コートのフードを被りながら僕──鐘威橙亜がそう言えば、隣の少女──白坂璃鎖は素手のまま雪遊びを始めた。相変わらず元気が過ぎる。
僕の服装はTシャツに大きめのパーカーを羽織り、下はショートパンツに黒タイツだ。せめてもう一枚くらい上着が欲しい。
隣にいる璃鎖なんてタンクトップの上に半袖、ショートパンツに生足という、この雪景色の中では自殺行為にも等しい格好である。雪が降っていないのが僥倖か。
「璃鎖、寒くないんですか? 年頃の女性が体を冷やすのは良くないんですよ」
「寒いよ! てか、それなら橙亜だって冷やしちゃダメだよ!」
「僕はまあ……体温が低いからいいんですよ」
「なにその理屈ー」
真っ白な息を吐き出して文句を言う璃鎖から顔を背けて僕は一息つく。吐いた息は白くならなかった。
「さて、他のメンバーはどこですかね」
「私と橙亜以外誰もいないね。近くにいるかな?」
「どうでしょうね。また分かれるパターンかもしれません」
辺りを見回しながら璃鎖に答える。
──過去にも似たようなことがあったな、と外見の割には随分と長い記憶を遡った。
周囲には雪を被った木々ばかり。どうやら森の中らしい。それだけの情報で現在地を特定するのは困難だ。
「これは針葉樹ですね……」
近くの木のそばに寄る。比較的寒い地域らしい、ということは分かった。
雪がこれだけ積もっている時点で寒い地域なのは確実だが、色々な気候の地域を旅してきたので確信を持てる情報は多い方が良い。
「とりあえず、ここが“どこ”なのかを確認しないと何も始まりませんね」
でなければどう動くか、何をすべきかも決められない。
──やることだけは、どこに行っても決まっているのだけれど。
「人の気配なんてないけど、大声で助け呼んでみる?」
「うーん……まあ、誰かに会わないとしょうがないですよね」
そう答えれば、璃鎖は小柄な体からありったけの大声を出し始めた。
これで心優しい一般人と遭遇できれば最高なのだが、山賊や吸血鬼や巨人などの厄介な人種と出くわしてしまう可能性もなくはない。
ここにどんな生物がいるのか分からないうちに軽率な行動は避けたいが、しかし慎重すぎてこちらが凍死しては困る。とにかくまずは、誰かと接触して情報を得なければならないのだ。
「誰かぁ〜! いませんかぁ〜! ごほっごほっ」
「喉を痛めそうならやめていいですよ」
「空気が冷たいんだもん」
寒くなってきたのか、璃鎖は腕をさする。
そんな格好なら寒くて当たり前だ、と溜め息をつき、僕は自分のコートを璃鎖に被せた。
「えー、橙亜が寒いでしょ?」
「僕よりあなたに風邪を引かれる方が困ります」
できるだけ避けたいが、もしも戦闘になった場合は僕よりも璃鎖の方が頼りになる。
「その辺を見て回ってきますから、璃鎖は待っていてください」
「それくらい私が行った方が早いのに」
「迷子常習犯は動かずじっとしていなさい」
「はぁーい」
不満げな璃鎖を残して僕はその場を離れた。
空を見上げれば日はそれなりに高い。先程よりも高くなった気がするから、まだ午前中だろうか。
道のない真っ白な地面を当てもなく歩く。空気は澄んでいて肺の中が冷たい。
スニーカーが雪で僅かに湿っていた。気持ち悪いが文句は言っていられない。日が落ちるまでには誰かと遭遇したいところだ。
そんなことを考えていると、ふいに人の話し声が聞こえてくるので、咄嗟に近くの木の陰に体を隠す。
「こっちの方から聞こえたと思うが……」
「助けを求めていた。早く行ってやらないと」
随分と距離はあったが、若い男性と少女の声だと分かった。璃鎖の大声に釣られてきたらしい。会話の雰囲気から、悪い人達ではなさそうだ。
姿を見せても大丈夫かと判断し、足を踏み出した瞬間、背後から声がかかる。
「橙亜!!」
「璃鎖?」
振り返ると、僕のコートを片手にこちらに向かって雪の上を全力疾走してくる璃鎖の姿が目に入った。
じっとしていろと言ったのに、全くしょうがないなとこぼれそうになった溜め息は、しかし彼女の背後を視認したと同時に引っ込む。
「なんか起こしちゃったみたい!」
「何をやってるんですかバカ璃鎖!」
璃鎖の背後には、それはそれは大きな熊がいた。──ヒグマだ。
ヒグマは苦笑いしている璃鎖を凄い速さで追いかけてきている。確実に追いつかれるだろう。熊相手に背中を見せて逃げてくるなんて何を考えているのか。璃鎖は山育ちではなかったっけ、よく死ななかったものだ。
気絶したかったが今はそれどころではない。焦る僕をよそに、璃鎖は走りながら僕の背後へと目を向けた。
──そうだ。ここには僕達以外にも人間がいる。彼らが巻き添えになって食われでもしたらとんでもないことだ。
璃鎖も同じ考えに至ったのだろう。表情を引き締め、近くの木に向かって走った。
そのままジャンプし、熊の全長よりも高い位置まで猿のように木を駆け登る。
熊は璃鎖につられて顔を上げた。その顔に、璃鎖は手に持っていたパーカーを被せて視界を奪う。
僕も熊に向かって走り、璃鎖を追いかけて立ち上がっていた熊の後ろ足を蹴り払った。雪のお陰もあって、足を滑らせた熊は後ろへと仰け反る。
璃鎖はベルトの後ろに挟んでいた小刀を抜き、熊の胸元に向かって勢いよく飛び降りた。全体重をかけて小刀を熊の心臓へ深々と突き刺す。
熊は仰向けに倒れた。しかしまだ息はあるのか、璃鎖に爪を向ける。
「璃鎖!」
「ふっ──!」
璃鎖は間一髪で避け、雪の上を転がって僕のところまで来た。熊はゆるりと立ち上がり、僕と璃鎖を見る。
──小刀では長さが足りなかったか、ここから逃げ切れるかどうか。
ひとまず距離を取ろうとした時、熊の体に何かが刺さった。
「大丈夫か!?」
女の子の声が耳に届く。
振り返れば、驚いた僕と同じように彼女も驚いた顔をしていた。
「ヒグマ相手によく無傷で済んだな。すごいシサㇺだ」
「ど、どうも……」
称賛に、僕はなんとか言葉を返す。
こちらに向かってきたのは、アイヌの少女と軍帽を被った顔に傷のある男性。ヒグマに刺さったのは少女の放った毒矢だ。
男性は僕達とヒグマの間に立つように割って入る。少女はヒグマから注意を逸らさず、次の矢に手をかけていた。
しかし、僕はそれどころではない。
──僕は彼らを“知っていた”。ついでにここがどこなのかも、いつの時代なのかも理解した。
「立てるか?」
ヒグマは倒れ、完全に沈黙する。
璃鎖に駆け寄って手を差し伸べた彼は、日露戦争で不死身と恐れられた杉元佐一、その人だ。
僕達はどうやら、『ゴールデンカムイ』の世界に来たらしい。