BLEACH
□2.Binda・blinda
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──世界はどこか、ずれている。
生まれたときから、あるいは七年前から、ふとしたときにそんなことを思うのだ。
明確に「何が」と聞かれると説明が困難だが、しかし、何かが違う。どこかが噛み合わない。ピントが合っていない。認識に、齟齬がある。
漠然と、周囲に薄い膜が張っているような違和感だ。
でも、それは決定的というほどでもなければ、致命的というわけでもない。ほんの些細な、日常の隣にひっそりとある違和感でしかない。
きっと、誰にだって起こり得る、思春期特有の、ありふれた居心地の悪さなのだと思う。まだ自我を確立する前の不安定な「自分」というものに、振り回されているだけだ。
そのうちに消えてなくなる、今だけのもの。大人になれば忘れ去られて、「あぁ、そんなこともあったね」と笑い飛ばすようなものだ。
だから、気にすることはない。
きっとみんな、同じはずだ。
──内側にずっと、何かが燻っているような感覚だって。
本当に普遍的な、ただの自己嫌悪だ。
*
「バカじゃないのあんた!?」
有沢さんの怒鳴り声が、井上さんの部屋に響いた。
外はすっかり暗くなっている。ずいぶん前に夕食を食べ終えた僕たちは、ちゃぶ台を囲みながら高校生らしい会話に花を咲かせていた。
数時間前、僕たちは井上さんのアパートに到着した。「せっかくだから」と唯和が早々に有沢さんも呼びつけ、部屋の中は一気に賑やかになった。
今は夕方の公園での出来事を有沢さんに共有している最中だ。唯和は当然のように誇張した内容を楽しげに話し、有沢さんもノリノリで聞いている。
二人して、完全に事案めいた黒崎さんの落とし方を力説していた。恋愛事に関しての二人の波長は近いものがあるらしい。まあでも、有沢さんは唯和の性格を理解している人なので、悪ノリっぽい感じもある。
「いやマジで一護はさっさと押し倒しといたほうがいいよ〜、でないとこの先何年かかるか……」
「でも唯和、一護はケンカ強いから織姫にはむずかしいんじゃない?」
「璃鎖、アンタ……織姫ですらそこら辺の意味はわかってるのに……」
「ん? どういうこと? たつきちゃん」
「あはは……璃鎖ちゃん、一緒にお菓子食べよっか!」
「おや〜? 璃鎖の前には織姫もボケに徹するのは難しいのかにゃ〜?」
楽しそうな四人の会話に、耳を傾ける。実にいい。内容はともかく、雰囲気はとても居心地のいい空間だろう。
──居心地はいい、はずなのに。
彼らを見るたびに、心が軋む。ここは僕の居場所じゃないと、体が叫んでいる。
邪魔をしてしまわないよう、先ほどからそっと息を殺していた。よそ者が空気を淀ませてはいけない。僕では璃鎖や唯和のような楽しい会話は提供できないだろう。だからこうして、ただ黙って会話を聞いている。
──それにしても、今日は……やけに心がざわつく。
きっと、楽しすぎるのがいけない。《ここ》の人間ではないのに、なおのこと《ここ》にいる罪悪感が大きくなる。ズルをしている気持ちになる。異物である疎外感が、浮き彫りになる。
──唯和が、家族の話なんてしたからかな……。
僕の家族はみんな死んでしまってもういないから、一人で楽しんでいることに罪悪感がある。
「………………おこがましい」
呟いて、顔を上げた。隣でうじうじしているだけでも楽しい空気に水を差してしまうかもしれない。そちらのほうが問題だ。
こうして楽しんでいられる時間も、あとわずかなのだから──。
──バスン!
「な……何? 今の……──音……」
少し離れた棚の上にあったぬいぐるみが、ボトッと落ちる。その前に鳴ったのはぬいぐるみが裂ける音だ。──時間か。
不思議そうにぬいぐるみを拾いに行く井上さんを静観しつつ、僕は有沢さんの前にゆっくりと出た。このあと、彼女が勢いよく飛び出してしまわないように。
次の瞬間、ぬいぐるみから巨大な手が現れ、井上さんの胸を突き破った。
井上さんは糸が切れたように倒れ込む。突然のことに有沢さんは駆け寄ろうとした。
「ほい、当て身っと〜」
しかし、背後から唯和が迫る。有沢さんの首に手刀をタンっと当て、即座に気絶させた。鮮やかな手際だ。
とはいえ、のちのインターハイ準優勝者をこうも簡単に気絶させてしまうのはどうなのだろう。空恐ろしい気持ちで倒れ込んだ有沢さんを見下ろした。
いやいや、今はそんなことを考えている時間はない。僕は璃鎖を振り返った。
「有沢さんを部屋の外へ避難させてもらえますか?」
「りょーかい! 織姫は?」
「黒崎さんの到着を待つのが確実ですね」
「じゃあ、一護が来るまで私はたつきちゃんを抱えて逃げ回ればいいんだね!」
話している最中も、部屋の空間が裂けていく。室内を圧迫するように虚が姿を現した。
璃鎖が有沢さんを連れて部屋の外に出て行く。僕と唯和も虚を視界に収めつつ、ジリジリと玄関に近づこうとした。
「…………!」
だが、それを遮るように虚の長い尻尾が飛んでくる。こちらに背を向けていたのに、的確に。
否応なしに玄関から離され、内心で舌打ちを一つ。隣の唯和は余裕そうな表情を崩さないが、虚から一切視線を外していなかった。
「璃鎖がたつきを連れて逃げられたところまでは作戦通りだったのにねぇ〜?」
「それが今回の一番の目標でしたから、おおむね成功では?」
「あら、虚退治を見届けるまでが戦闘ですよぉ〜? そんな戦闘行為中に気を抜くなんて、橙亜は本当に死にたがりだなぁ〜?」
嫌みったらしい言葉だが、要は「怪我をするな」という意味だろう。ツンデレ、あるいはツンドラは翻訳に一手間かかる。
怪我をしないに越したことはない。しかしながら、唯一の出口への道を阻まれている以上、狭い屋内を無傷で逃げ続けることは難しいだろう。
──僕が囮になって、唯和も逃がせるだろうか。
長く伸びる虚の体の向こう側には、うずくまった井上さんが見える。「因果の鎖」が切れた様子はない。
ならば、黒崎さんたちが駆けつけるまでのあいだ、虚の注意を引きつけておかねばなるまい。《外》から乱入してきたのだから最低限、そのくらいの仕事はするべきだ。
そう思った途端、虚がこちらを振り返った。
「お前…………何だ?」
「──!」
言葉とともに攻撃が来る。縦に尻尾を振り下ろしてきたので再び回避に成功した。
フローリングの床を転がったせいか、頭が痛い。すぐに体を起こして体勢を立て直そうとするが、目の前にはすでに虚の手が迫っていて──。
「橙亜!」
「うッ!!」
唯和の舌打ちが聞こえたあと、左肩が熱くなった。
切り裂かれた──と判断するのと、床に押し倒されたのはほぼ同時。
──戦闘の心得もない一般人が虚相手に囮になろうというのが、そもそもの誤りで。
厚顔無恥な思い上がりに失笑してしまう。
そして、虚の大きな手が、僕の喉を押し潰した。
「────ぐッ……がぁ!!」
ギリギリと喉を絞められる。金縛りのように全身が硬直して、呼吸が遮られた。
嫌悪感が、寒気が、恐怖が、全身を駆け巡る。
「同じか? それとも、別の──」
ぼやける視界、耳鳴りの向こうで虚がそんな言葉を呟いた。ような気がする。
意識が遠のいていく。水底に沈んでいく。
孔に、墜ちていく──。
──嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
体が、魂が震える。骨にまで響くような鎖の音が耳元で鳴っている。
真っ暗な水の中で、僕はひたすらもがく。
しかし、もがけどもがけど、苦しくなるばかり。
──嫌だ、助けて! 誰か……誰か!
けれど、僕を助けてくれる人はいない。いつもそうだ。いつかだって、そうだった。
引きずり込まれる。飲み込まれる。僕が、僕じゃなくなる。足先から這い上がってくる。
逃げたいのに、体は動かない。鎖に繋がれて、どこへもいけない。
呼吸をするために水面に上がりたいのに、僕は底に沈んでいく。足を取られる。
暗い暗い、真っ黒な底は、もうすぐ──。
「──ぶはっ!」
「橙亜ちゃん、大丈夫!?」
目に光が刺し込んで、意識が覚醒する。空気が一気に肺を満たして、過剰な量に思わずむせた。
「げほっ……ごほ……井、上さん……?」
「にげて! 今のうちに!」
どうやら、井上さんが虚の腕に体当たりをしてくれたようだ。
「はぁ……はぁ……っ、逃げる必要は、もうありませんよ」
「何言って……!」
ゆっくりと重い体を引きずり、すぐそばの壁にもたれかかる。焦る井上さんがこちらに手を伸ばすが、それを避け、彼女の背後の虚を見据えた。
「あなたのヒーローが、助けに来るので」
虚が攻撃をしようとしていた。振り上げられた腕がスローモーションに見える。絶体絶命だ。
しかし、それは真っ黒な影によって阻まれる。大きな音が響いた。
「……黒崎……くん……?」
瞼をおそるおそる開いた井上さんが呟いた。
彼が近づいてきているのは霊圧の動きで感じていた。どうやら《こちら》の世界に来て、僕の霊圧知覚も強くなっているらしい。
間一髪、虚の腕を大きな斬魄刀で受け止めた黒崎さんは、虚に向かって啖呵を切る。
その光景を見て、全身の力が抜けた。どさりと床に伏せる。
──あとはもう、大丈夫。
井上さんは彼が助けてくれる。有沢さんは大きな怪我もなく璃鎖が逃がしてくれた。
唯和の姿は室内に見えない。きっと僕がやられているうちに外に出て、璃鎖と一緒に有沢さんを避難させてくれているのだろう。
────疲れた。
体は疲労困憊だ。左肩の傷からはまだ出血が滲んでいる。少し動くだけで全身に痛みが走った。
──こんなことでは……ただの虚退治で死んでしまう。
やはり、戦うための力が必要だ。
欲しい。全てをすくい上げられるような力が。
──でも、どうすればいい?
何度も繰り返した自問自答では、結局答えは見つからない。
僕に力はない。僕は何も持っていない。生まれたときからそうだったのに、今になって手に入るとでも?
出来損ないの化け物には何もできない。家族に、母にさんざん言われてきたのに、まだ理解していないの?
──違う。今やるべきことは、自己嫌悪じゃない。
力がないなら手にいれればいい。と、唯和は言った。その通りだ、と思う。
待っていても奇跡は起きない。祈ったところで現実は変わらない。自らの意志で、自らの手で、力を掴み取らなくては。
──誰も助けてくれないのだから、僕が、自分でやらなくちゃ。
右手に力を込める。いつの間にか、「何か」が手の中にある感覚があった。
再び体に力を入れる。霞む視界を必死にこじ開ける。
立て。立って、一歩を──。
「淋しかったならそう言ってくれればいいのに……」
ふと、井上さんの言葉が耳に届いた。
先ほどまでの喧騒は鳴りを潜めている。いや? 耳鳴りと戦闘の轟音でまともに耳が機能していなかっただけかもしれない。
心臓が音を立てた。違う、ずっとうるさかった? 頭が痛いのもさっきからだ。怪我のせいか? 違う。もっと内側だ。
頭の奥が、心臓の奥が、何かを主張するように激しい痛みを訴えている。
「ハァ……ハァ……!」
体を丸めて、痛みに耐えながら彼女の訴えを聞く。
井上さんの言葉が逆鱗に触れた虚は、彼女に掴みかかった。
「殺してやる……!」
「ぁ────」
頭の中が、引き裂かれたと思った。
虚に襲われているのは井上さんだ。僕のことなど彼らの目には映っていまい。そのくらい戦況は緊張状態で、僕は蚊帳の外なのだ。
だから、僕の異常に気づける者は誰もいない。誰も、助けてくれない。
「俺をこんなにしたのは誰だと思ってるんだ……!! お前だろう織姫……! 殺してやる……殺してやる殺してやる殺してやるぞ!!」
痛い。苦しい。虚の言葉に合わせて、誰かが体の中で暴れているかのよう。
──やめて、出てこないで。
どぷん、と再び意識が水の中に落ちた。
先ほどよりも凄まじい速度で引きずり込まれる。抵抗する暇もない。それは叫び声すら許さない。急速に冷えていく体は動かない。
そうして、あっという間に闇に呑まれた。
僕の意識も、記憶も、ここで終わり。これより先に、僕はいない。
──大丈夫、あたしが助けてあげるからね。橙亜──
最後に、鎖の音が聞こえた。