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□夏を呼ぶ声
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やれ温暖化だ環境破壊の弊害だと言われ続けて数年。夏に向かって全速力で走る八月の日差しは、午前中にもかかわらず縁側から差し込み室内全体に熱をもたらしていた。暑い。ぽたり、汗が額から落ちる。茹だるような暑さとはこのことかと、勝呂は重々しくため息を吐いた。情け程度にふたつも吊している風鈴の音色も数十分前から耳にしていない。ヒートアイランド現象によってどの県よりも高い気温の東京から逃げてきたつもりだったのだが、盆地である京都の凶悪な夏の暑さを舐めてかかっていたようだ。しかも実家は旅館を経営しているとはいえ、歴史ある古い建物は全て和室。だから、普段の生活スペースにクーラーなんて文明の利器が浸透しているはずもなく。お陰で外国人観光客からは受けがいい―――梅雨の時期や夏以外は。むしむしとした日本特有の暑さは年中暑い国に住む人々でも耐えられないらしい。これなら学園の寮に大人しく篭っていた方がまだ涼しく夏を過ごせたのではないかと思う。家出同然の振る舞いを許してくれた母親は、裏を返せばそれしか許してくれていないのでまだ髪を染めたことやピアスを開けたことを口にするし、ろくに話したこともない檀家の者達ほどいちいち騒ぐので休まった心地もしないのだ。幼い頃から知った顔とはいえ、いかんせん数が多すぎるのも考え物である。それでも帰って来なければ良かった等とはかけらも思わないのは、やはり心配と迷惑をかけてしまっているという申し訳ない気持ちがあるのと、今回は異郷の友一人とその使い魔一匹を招待しているからだろう。


「初めて来たときも思ったけどよ、勝呂んちってでけーよな」
「ほうか?」
「風呂もでけーし羨ましい」
「お前かて、先生と二人で旧男子寮使うとるやないか」
「それとこれは別だ!」
「まあ、生活出来るとこ限られてますもんねえ」
「ほんでボロいしなあ、あの寮」


虫さん出そうで俺は絶対住めへんわ。なぜか胸を張ってそう言う燐に、志摩があのいつものへらへらした笑顔でふわふわと言う。確かに自分達が利用している新しい男子寮と比べ、燐が弟と二人で利用している男子寮は流石に旧と言うだけあって年期の入ったおんぼろ寮だ。初めてあの寮を見たときは本当に人が住めるのかと目を疑ったものである。それでもやんわりとオブラートに包んでものを言う子猫丸をもう少し見習えと、勝呂はため息を吐きながら志摩の思考を具現化したような明るい色の頭を叩く。すぱん。軽い音に聞こえる気がするのは中身が詰まっていないからだろうか。


「ちょお、坊!加減したってくださいよ!」
「やかましわ!はよ勉強せえ!」
「残念、今の衝撃で俺の知識の泉は涸れ果ててまいましたー」
「志摩の脳が干からびてんのは元からだろ」
「奥村くんの言わはる通りです」


全員から満遍なく痛烈な言葉を浴びせられ、志摩は酷い!と言いながらペンを放り出して机に身体を預けた。やる気も体力も残っていないと言ったところか。メーターにすればきっと赤く点滅しているに違いない。しかし、このお泊り会と称した勉強会(志摩曰く男だらけのムサ会)はサボり魔の志摩と全く頭を使わない燐のために企画したものなので、勝呂は早く起きてペンを持てと厳しい眼差しで横を睨む。少しは燐に習って真面目に机に向かってほしいものである。彼の場合、あり余るやる気に身体と頭が伴っていないだけなのだ。いや、ペンを持つとすぐに寝たり二、三度説明しても首を傾げられたりするのもうんざりするのだが、それでも頑張ろうという気持ちがあるだけまだマシである。


「もーあかん、こない暑いのに勉強なんてでけんわ」
「確かにあっちいよな…あーゴリゴリ君食いてえ…」
「あ、ええなそれ。スイカも食べたいわ」
「パフェ、プリン、冷凍みかん」
「冷やしぜんざい、宇治金時」
「あ、あと杏仁豆腐も」
「…なんやかいらしいもんばっか言うなあ、奥村くん」
「そういう気分なんだよ」

「お二人とも……」
「………はあ、もうええわ」


脱線しはじめた二人に子猫丸がおろおろと声をかける。大方、勝呂の堪忍袋の緒が切れてしまうとでも思っての言葉だろうが、残念ながらそれはもう既に切れてしまっている。最もその原因の大半はこの暑さにもあるので、だらだらと話す志摩と燐に怒鳴り散らす気力はない。こちらもメーターにするなら真っ赤に点滅しているはずだ。持っていたペンを先ほどの志摩にならって放ると、勝呂はばたりと後ろに大の字で倒れた。こうも暑くては頭も回らず勉強もはかどらない。机の下から反対側を見れば、既に燐もごろりと畳に身体を転がしていた。俯せだと逆に熱が篭るような気もするが、おそらく尻尾が痛いんだろうと思うことにした。そうじゃなきゃ見ていられない。これで四人の内で子猫丸だけが寝転んだり机にだれたりしていないが、暑さで参っていることに代わりはないようではたはたと下敷きで自分に微風を送っている。それを見て志摩がずるいと呟いた。何がずるいのか。突っ込むこともなくぼんやりとしていると、数少ない日陰でだれていたクロが力なく鳴き声を上げていた。なんとなく何を言ったのか気になったので燐に聞いてみる。


「クロ、なんて言うたんや」
「あついーしぬーおれもあおいでー、って」
「………一鳴きしかしとらんで」
「でもそう言ってたぞ…」
「まあ確かに、この暑さでそない真っ黒けの毛皮着とったら死んでまうかもしれへんよねえ」
「動物さんもなかなか難儀ですねえ」


夏場ばかりは自分が動物でなくて本当に良かったとしみじみと頷く四人に、クロが非難めいた声でにゃあと鳴いた。燐に通訳してもらわなくてもなんとなく言葉がわかって、誰からでもなく笑いが起こる。なんとなく面白いのだ。暑さで正気が溶けていろいろと箍が外れてしまったらしい。普段ならこんなことでは笑わない勝呂も肩を揺らしている。だがそれも、やはりその暑さのせいですぐに止んで。沈黙の中に油蝉の合唱だけが唸りを上げていた。じわじわみんみんしゅわしゅわしゅわ。耳が痛い。唐突に志摩が口を開いた。


「…俺、夏て好きやけど嫌いなんよね」
「その心は?」
「いや謎かけちゃうし…まあええけど、」
「奥村、止めときや。聞いたとこでどうせくだらん理由やぞ」
「くだらんくないですわ、俺の死活問題どすえ」
「え、本当なんなんだよ」


長い付き合いの勝呂はすぐさま切り捨てたのだが、死活問題の言葉に興味が湧いた燐が少し身体を起こして尋ねる。子猫丸もクロに風を送りながら難しい顔をしていた。それでも気になると燐が志摩を見れば、同郷の三人だけなら途切れたであろう会話が続いて嬉しかったのか少しだけ身体を起こして笑顔で口を開いた。なんだかとても生き生きしているように見えるのは、目の錯覚か何かの見間違えだと思いたい。


「水着とかキャミとかミニスカとかミニパンとか生足とか、女の子の露出が増えるんは嬉しいけど虫さんが増えるんは嫌なんやー!」
「………くだんねえ」
「ほれみい、言うた通りやろ」
「志摩さんは一度往生してまえばええんや」
「え、えええ、ちょお皆して冷たない!?特に子猫さん!」


冷たいなら涼しゅうなってよろしいやないですか。ぎゃあぎゃあと喚き立てると更に冷ややかなことを言う子猫丸に、もう嫌だと志摩が手を顔に当てて泣き真似をする。部屋の温度が一気に下がったように感じられるのは気のせいか。昔から軽くてちゃらちゃらした幼馴染に対して少し厳しい、けれど心根は誰よりも優しい幼馴染を見つめて勝呂はため息を吐いた。なんだか京都に帰って来て一段とため息の数が増えたようだ。


「そや、奥村くん。前々から思てたんやけどさあ、」
「んー…?」
「ほら、それ。なあ、尻尾て暑ないん?」
「そういや暑くねえな…踏まれたら痛いけど」
「へえ、痛覚はあるんやね…不思議やわあ」
「なー」
「にゃあん」


同調するようにぺしぺしと尻尾が畳を打って、クロが羨ましそうに鳴いた。きっと彼は尻尾の先まで熱が篭っているに違いない。使い魔を慰めるようにふよふよと動くそれが、なんだか猫のようでなかなか面白くて笑いが漏れた。燐ほどわかりやすく感情を伝える人はいないだろう。いや、本当は悪魔なのだけれど。嬉しければ左右に揺れて悲しければしょんぼりと下に俯く尻尾は、今は暑さからかくたりとしていた。ちなみに動かしている本人がわかっていないのがまた、こちらの微笑みを誘う要因だ。横たわった視界で勝呂がなんともなしにそれを見つめていると、どういうふうに話題が変わったのかはわからないが、机に頬をつけていた志摩が「ぼーん、水浴びしましょー」と間延びした声で言ってきた。その表情はさも妙案を思いついたとでも言いたげで、鼻高々といった感じである。


「ダメですよう、志摩さん…」
「……いや、暑いしええよ。ほうやけど、どうやってやるんや」
「ほら、俺らがちっさい頃に使うてたビニールプール」
「あー…あれか」
「ほれです!あれ使いまひょー」
「ホースもいるな…俺行ってくるわ」
「あ、ほんなら僕探して来ますよ」
「頼んますえ、子猫さん」


初めは乗り気でなかった子猫丸も勝呂が腰を上げようとした途端、さっと立ち上がりどこかへと行ってしまった。人徳の差という言葉が一瞬志摩と勝呂の頭の中を過ぎったが、きっと彼も暑さに耐えきれなかったのだと思うことにした。いちいち気にしていたらきりがない。さてそれでは勉強道具でも片付けておくかと机を見れば、そわそわと落ち着かない雰囲気で燐がノートを持ったり置いたりしているのが目に入る。ときどき尻尾がぴくりと動いていて、楽しみなんだろうと一目でわかった。


「おら、ちゃっちゃか片付けぇ」
「へあっ?う、おおおう!」
「ブフォッ!きょどり過ぎやで奥村くん!」
「うるせーよ!えろ志摩ばか志摩ピンク志摩!」
「ばかはあかんえー!」
「ぎゃー!引っつくな暑い!」
「俺と奥村くんは相思相愛やもーん!」
「お前も片付けや阿呆」


燐の背中に被さって離れない志摩にそう声をかけると、そのままじゃれる二人を放って勝呂は子猫丸の分も綺麗に片付ける。途中、ぎゃあだとか痛い痛い痛いという悲鳴じみた志摩の声が聞こえたが無視しておいた。おそらく自分の主人のピンチを感じ取った猫又が引っ掻いたか、ピンク色の頭に飛び乗ったのだろう。ぜえはあと荒い息が響く部屋で子猫丸の帰りを待つ。志摩の腕には綺麗な小さい歯形が出来ていた。ああ、引っ掻かれたのではなく噛まれたのか。口には出さずに思うだけに留めておく。そうして数分後、青いホースを左手に巻きつけビニールプールを抱えた子猫丸がひょこりと顔を覗かせた。

















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