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□僕らの愛が届く距離
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神崎さんへ。










人である定義とはなんだろうか。不意にこつりと右肩に触れてきた熱に、ぼんやりとそう思った。


「どないしはったの、奥村くん?」
「どうもしねー…」
「…もしかして眠たいん?」
「う…だって、あったかいし…」
「せやねえ、おてんとさんもえらい笑うてはるもんね」


きらきらと降り注ぐ太陽のかけらはとても暖かく、昼食で膨れた腹との相乗効果ですぐにでも夢の国へと旅立てそうだった。ちなみに昼食は燐の手作りである。可愛い恋人が作った美味しいご飯に、木陰から少しだけ零れる光に穏やかな風。幸せに形を与えたのなら、きっとこんなふうに何気ない光景になるのかもしれない。猫のように尻尾を志摩の腕に絡ませる燐は、少しだけとろりとした瞳をぱちぱちと瞬かせながら笑った。


「志摩と一緒にいるから、あったかいんだ」
「っ、そないかいらしいこと言うたらあかんて…!」
「ふはっ、志摩ちょう赤い!」
「もおー…見らんといてやー!」


左腕でがっしと頭を抱え込み、そのまま自分の懐に燐を閉じ込めてしまう。どうしてこの子はこんなにも可愛いんだろうと思う。悪魔は悪魔でも、燐はきっと小悪魔だ。志摩がその愛らしさに敵うことは多分ないのだろう。膝に寝転がった身体に覆い被さって手当たり次第に唇を落とせば、きゃらきゃらとたいそう可愛らしい笑い声を上げていた。本当に可愛くてしかたがない。やっぱりこの子は小悪魔なんかじゃなくて天使だ。


「くすぐってえ!ばか、もう止めろよー!」
「ばかって言うたね、ひどいわあ!」
「ひどくないし!はははっ、志摩っ、ちょ、やめっ!」
「こないなええ男捕まえといてよお言わはるわ!」


成敗!と抱き締めていた両腕でわき腹をくすぐれば、ひいひいとのどを震わせ真っ青な瞳に水の膜をうっすらと作る。小刻みに動く尻尾で視界を奪ったりと燐も抵抗を見せるが、志摩は一切攻撃の手を緩めないでくすぐり続けた。だって自分の恋人は少し華奢な見た目に反して、料理がぎっしり詰まった重箱をいくつも重ねて持ったり男を軽く片腕で持ち上げるくらいのことはやってのけるのだ。蛇足だが、志摩は未だに腕相撲で燐に勝てた試しはない。一発KOである。だから、もしも本気で嫌なら押し返すなり突き飛ばすなりするはずなのだ。ということは、あまり嫌ではないんだなと都合よく解釈するのが志摩廉造というもの。だって、くすぐったがる燐がなんかえろい。全体的にえろい。燐がえろいのが悪いのだ。


「うは…っ!おま、ほんと…ふははっ、あとっで、覚えとけ…!」
「おお怖、はいはいもう止めますよー」


流石にこれ以上やったら確実に機嫌を損ねると表情から察知して、志摩はそろそろと燐を解放する。せっかく二人きりでのんびりと擬似ピクニックデートを満喫しているのだ。どうせなら楽しい記憶のまま終わって、そしてそれが燐の中でかけがえのない思い出となればいい。一度でも傷つけてしまった自分がこう思うのは烏滸がましいのかもしれないけれど。誰よりも優しい悪魔であるこの子には、笑顔が一番似合うから。幸せな思い出ばかりがずっと、彼の中で息づけばいい。少しむくれた顔をして睨んでくる燐に、志摩はいつもよりもとろけた笑みを向けた。不満そうに地を打つ尻尾が可愛い。


「堪忍なあ、奥村くんがあんまりにもかいらしゅうて苛めたくなってもうたんよ」
「じゃあ、志摩が可愛いからちょうちょ捕まえてくるな、俺」
「すいませんでした、ほんまに反省してますそれだけは勘弁したってください」


少し腰を浮かしてそう言う燐の目は本気だった。多分、ちょうちょと称して蛾を捕まえることだって厭わないだろう。今の恋人を四字熟語で現すなら有言実行である。洒落にならないと志摩が間髪入れずに謝罪すれば、くすくすと可愛らしく「変な顔ー」と笑われた。どうやら怒りは去ったようで、よかったあと眉を下げれば頭を撫でられた。新緑の香りが濃い風が、そっと二人を包み込む。


「…幸せやなあ」
「そうだな…幸せだ」
「なあ奥村くん、お昼寝でもしませんか?」
「お、いいなそれ」


しみじみと呟いた言葉に合わせて出た提案に、燐はぱっと顔を輝かせると志摩の膝に倒れてきた。ここ取ーった!と無邪気に笑う。頬へと伸ばされる手が、無防備にさらけ出された首筋が、身体を預けられた重みが全て愛おしい。心の底から自分を信頼してくれていて、そして好いてくれているのだと伝わってくる。


「これやと俺が寝れんと違う?」
「いいじゃん。志摩は何もしないで俺の寝顔を眺めとけよ」
「ちょ、それなんて生殺し?」
「俺をくすぐった罰だ!」


燐はけらけらと笑って、その細い指で志摩の頬を摘まんだ。そしてそのまま目を閉じると、数分と経たないうちに静かになってしまった。するりと落ちる掌を慌てて握り、そっと身体の上に置く。自分の欲に忠実だなあと思いながら、志摩は燐の寝顔をなんとなく眺めていた。


「口、半開きやん…」


下手したらよだれでも垂れているんじゃないだろうか。間抜けな顔に笑いを堪えながら、ふと口から覗く歯が鋭いことに気づく。キスするときはあまり気にならなかったのだが、こうして間近で見るとやっぱり燐は人間ではないんだなと感じてしまう。耳も尖っているし、今は見えない瞳の光彩はとても澄んだ群青だ。日本人でそれを持つものなんてまずいないし、外国人だってあんなにも綺麗な青い目をしてはいないだろう。自分よりもほそっこい身体つきをしているくせに、ありえない力や炎を秘めているのだ。燐ほどのギャップを持った人に志摩はまだ出会ったことがない。それがなんとなく嬉しくて、気づけば小さな鼻を摘まんでいた。


「んんん〜…」
「ブフォ…!変な顔…!」


眉間にしわを寄せて唸る燐に笑いながら、起こしては悪いとすぐに手を退かした。本当に、こんなにも可愛くて面白い子が悪魔だとは志摩にはどうしても思えなかった。確かに普通の人間である自分と比べて見た目は少し違うし、傷だって早く治ってしまう。けれど、志摩が好きだと言えば嬉しそうに笑う。酷いことを言われたら泣きそうな顔をするし、人前で抱き締めたら怒って照れる。ころころとこんなにも表情豊かで、優しくて可愛い燐を悪魔だと言うのなら、はたして人間とはなんなのだろうと思ってしまうのだ。


「はあー…なんや、頭がごちゃごちゃする…」


普段からあまり頭を使わない人間が考え込むとろくなことがないと、志摩は膝の上にある真っ黒な髪を優しく撫でる。少し猫っ毛の燐の髪はさらさらとしていて触り心地がいい。頭の中のもやもやがなくなっていくようだ。幸せそうに半開きの口をもごもごと動かす燐の「ゆきお…すき、やきー」という寝言に苦笑い。夢の中でもあの人は邪魔をする気なのか。今日だって、急な任務が入らなければついてくる気満々で志摩を睨んでいた。殺されとらんとええんやけど。毒々しい色の服を着た理事長を思い出しながら、志摩は腰辺りに絡んできた燐の尻尾を一撫でした。


「ッ、う…?」
「ええ子やから、まだ寝とき」
「んむ…」


急所を触られたせいでびくりと震える身体に、宥めるようにそう言えばまた静かになった。悪魔である定義とはなんだろう。尖った耳や鋭い歯を持つことか、尻尾を生やしていることか。それとも、人の心につけ入って虜にする、その魔性のことだろうか。腹に擦り寄ってくる燐をぼんやりと見つめる。心なしか、なんだか満足げな表情をしているように見えるのは志摩の目の錯覚だろうか。


「好きやよ、奥村くん」


背中を丸めて頬にキスをする。喜びを素直に表すのに戸惑いはにかむところも、照れ隠しに口を尖らせるところも、一人で涙を流すところも全部、それが燐だというだけで愛おしくて堪らない。人と悪魔の境界線なんて志摩は知らない。知りたいとも思わないが、少なくとも人の膝の上で健やかな寝息を立てているこの子を悪魔だと断定することは、きっと自分の一生のうちに訪れることはないだろう。


「んん…しまあ…」
「……ほんま、君には敵わんわ」


ため息混じりに両手で顔を覆う。むにゃむにゃと唱えられた寝言は甘く、とてもじゃないけど赤く染まる頬を抑えることは出来なかった。












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