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□ふたりぼっち。
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ある日、弟の声が出なくなった。なんの予兆もなく、彼の身体から唐突に声だけが消えたのだ。


「ゆきー、飯にするぞー」


フライ返しを片手に呼べば、とたとたと寝惚けた顔の雪男がやって来た。寝癖は直ってないし、服の裾は中途半端に捲れてへそが見えている。そのくせ眼鏡だけはきちんとかけているのだから、しっかりしているのか抜けているのかわからない。とりあえず乱れた服を直してやると、雪男はぴたりと背中に抱きついて緩やかに吐息を吐き出した。足元にいるクロも一緒になって欠伸を零していて、なんだか平和だなあと思いながら笑う。すると大きなひっつき虫は俺に体重のほとんどを預け、あごを右肩と首の間に乗せてぎゅうぎゅうと力を込めた。抗議のつもりだろうけど全然重くも痛くもない。半熟の目玉焼きとベーコンが乗った皿を両手に持ち、引き摺るように歩けば耳元で空気が震える気配がした。


「笑ってないで座れ、ばか」
「……………」
「……ああもう、わかったよ」


喋れないから当たり前だけど、無言で首筋を噛んでくる雪男の頭を軽く叩いて椅子まで連れていく。それでも背中から離れようとしないから嫌がらせついでにそのまま腰かけてやると、肩に巻きつけていた両腕を俺の腹に回してまたあごを肩に乗せた。そして醤油を足らすとフォークを掴んで、器用に一口サイズに目玉焼きを切っている。どうやらこのままで食べるらしい。俺はともかく雪男は食べづらいんじゃないだろうかと思ったけど、もそもそと口が動いて振動が伝わってきた。問題はないようだ。


「ゆき、ちょっと手ぇ退かせ。フォーク取るから」
「………、………?」
「自分で食えるっての!」
「…………」


目の前に差し出されたベーコンが乗った銀色を雪男の口元に押し返す。不服そうだけどちゃんと頬張っているのがなんとなくわかる。そして使っていたフォークを無理やり俺の手に握らせると、再び両手を腹に回してきた。食べさせろと言わんばかりのその態度に、どうやら随分と甘えたに戻ってしまったなあと思わず笑ってしまうと軽く脇腹をつねられた。仕方ないからトマトを刺して雪男の口に運ぶ。机の横でベーコンを食べていたクロが、それを見て「りんとゆきおはなかよしだな!」と尻尾を立てて言う。


「……?」
「俺とお前が仲良しだってさ」


そう教えてやれば、耳元で笑う気配がした。首を捻って雪男を見れば、やっぱり嬉しそうに目が垂れている。ゆるりと弧を描いた唇からは今にも笑い声が飛び出してきそうなのに、そこからはただ空気が漏れるだけで。心因性声失病。それが医者の診断だった。心因性。つまり、声帯が傷付いて声が出ないわけじゃなく、心が傷付いて声が消えてしまったのだ。


「ほら、」
「…………」


バターとハチミツをたっぷり塗ったトーストをふたつにわける。片方は自分に、もう片方は雪男に咥えさせた。これでしばらく運んでやらなくて済むと、俺はぼんやりと声が出なくなった日を思い返す。今の雪男の心の状態をパソコンに例えるなら、膨大な情報を溜め込んだせいで容量が足りなくなり、そこへ更にウイルスが侵入したことで電源が飛び、一部の大切なデータが破損してしまったようなものだと初老の男性が言っていた。膨大な情報はたくさんのストレスで、ウイルスは周囲の俺に対する悪意、そして大切なデータは声だったと言うわけで。そう。俺のせいで雪男は声をなくしたのだ。夢を奪うだけじゃなく、声まで。


「?」
「……なんでもねえ」


心配そうに俺の顔を覗き込んだその口の周りにはパン屑がついている。まるで小さな子供みたいだ。甲斐甲斐しくそれを取り、食べ終えた皿を片付けるために手を解く。一緒に診断結果を聞いていた雪男の、困ったような表情で手元にあるスケッチブックに「授業、どうしようか?」と書き込んでいたことが忘れられない。前日、黒板に書いた字と寸分も違わない綺麗な字だった。


「………、」
「お、ありがとな」
「……………」


持ちきれなかったコップを持ってきた雪男に礼を言う。ついでに頭も撫でてやれば、満足そうに目を細めてまた背中に引っついてきた。声が出なくなってから、雪男は驚くくらい甘えてくるようになった。今まで我慢してきたものの反動だと、医者は言っていた。その言葉に俺は酷く納得して、甘やかすためにメフィストに言って学校も塾もしばらく休ませてもらうことにしたのだ。双子だからか雪男の言いたいことはわかるから、スケッチブックはすぐに引き出しの中へ戻っていた。


「ほら、離れろよー。水かかるぞ?」
「………っ」
「嫌って…しかたねえなあ…」


ぎゅうぎゅうと目一杯抱きつく雪男の肩を宥めるように叩いて、俺はスポンジを泡立てる。今思えば医者になりたいと言った優しい弟が、悪魔と言えど生きているものを撃ち殺すなんて耐え切れるはずがなかったのだ。そこに魔神の息子である俺が加わり、いろんな負荷がかかっていたのだろう。昔と違って隠すことばかり上手くなった弟の悲鳴に、俺は気付くことが出来なかった。兄失格だ。


「昼飯は何がいい?」
「……、…………」
「それが一番困るんだよ…」


だって、兄さんが作る物はなんでも美味しいから。いつもなら続く言葉は聞こえない。だけど、雪男がそう思っているとわかっているから俺は笑う。食器を洗う水音に、背中にあるぬくもり。足元には飼い猫が擦り寄ってきて、外は見事に晴れていた。平和だと思う。幸せだとも思う。足りないものはあるけれど、俺は幸せだ。蛇口を止めて静かに目を閉じる。兄さん。角が取れた優しい音でそう呼ばれるのが、お前の声でそう呼ばれるのが好きだと言えば、きっと雪男の声はすぐに戻ってくるんだろう。だけど、それを口にしないのは雪男のためだけじゃない。暴言も殺意もないこの暖かな空間にずっと二人きりでいたいと願う、ただの俺のエゴだ。なあ、雪男。心の中でそっと呟く。お前の声が失われたと知った瞬間、少しでも喜んだ俺はやっぱり兄失格なんだ。











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