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□貴方がそう言うのなら
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ふと、視線を落とした先に花が咲いていた。何度か目にしたことはあるけど名前は知らない、そんな小さな花弁の青い花を。柄じゃない。そんなことは誰よりもわかっている。けれど、気付いたら僕はその花を手に持っていたんだ。





「ただいま…」


仕事が長引いて漸く解放されたのは、夜というよりも深夜に近い時間帯。おそらく兄は夢の世界へと旅立っているんだろうと思いながらも、ドアを開けば日課になっている言葉が滑り落ちる。返事がないことを少しがっかりしている自分に苦笑いながら、静かに荷物を置いて着替えを済ませた。そして、テーブルに花を生けたコップを置く。どこにでも咲いているそれも、月の下にある姿を初めてみたからか、少しだけ幻想的で綺麗だった。


「…ゆき、お?」
「あ、ごめん。起こした?」
「んー…平気だ」


ベッドを軋ませて舌足らずにお帰りと笑う兄に、ぎゅうと心臓が収縮する。不意をつくのが得意な彼は、いつもこうして無自覚に僕をどきりとさせるのだ。全くもって質が悪い。口から出そうになるため息を抑えて、ぼんやりとしている兄に「早く寝たら」と声をかける。ふらふらと眠たげに頭を揺らす姿は見ていて気持ちがいいものじゃない。


「ほら、僕ももう寝るから、」
「なあ、その花って」
「ああ…懐かしいよね」


昔、身体が弱くて寝込むことが多かった僕に、兄が毎日飽きもせず取ってきた小さな花。それがテーブルの上に置いてあることに少し驚いたのか、そう言ってコップを撫でれば彼は黙ってこくりと頷いた。すっかり目が冴えてしまったようだ。


「懐かしいなあ…お前、まだこの花好きなの」
「は?この花が好きなのは兄さんだろ」


道端で見つけるたびにたくさん摘んで神父さんに呆れられたり、花を踏んだ男の子達を殴って神父さんに怒られていたくせに何を言うんだ。そんな昔話をいくつかしてやれば、彼は声を荒げて反論してきた。ここが僕達しかいない寮で良かったと心底思う。もし隣に誰かいたら苦情ものだ。


「あれはあいつらが悪かったんだ!つか、雪男が好きだって言ったから俺は毎日あの花を摘んでだなあ!」
「え、いつ好きだって言った?」
「覚えてねえのかよ…ほら、二人で迷子になったとき」
「―――…ああ」


思い出した。あれはまだ小学校に上がる前の、珍しく僕の体調がよかった日のことだったと思う。探検に行こうと手を引っ張る兄についていって、気付けば迷子になっていたんだっけ。それでもしばらく歩いていたら、原っぱのような開けた場所に出た気がする。


「泣いてたお前に俺が、この花好きか?って聞いたら頷いただろ」
「そう、だった?」
「おう。そんで、手当たり次第に花摘んで雪男にやったぜ」
「あー…うん、思い出したよ」


最後は頭が花まみれになったよねと確認すれば、兄は目を泳がせながら頷いた。微かな記憶が段々とはっきりと輪郭を帯びる。そうだ。確かに僕はこの花を好きかと聞かれて頷いたのだ。たったひとつ、兄が零した小さな言葉で好きになったから。そのときのことを思い出そうと目を閉じていると、ふわりと欠伸が聞こえた。


「眠たいなら寝ろよ」
「うぇーい」
「はあ…」


重たいまぶたをなんとか持ち上げる彼にそう言えば、気の抜けた返事が返ってきた。そして大きく揺れはじめた彼を、僕はため息混じりにベッドに倒す。反応が返ってくる前に布団を被せれば、兄はふがふがと何かを言いながら寝てしまったようだ。寝息だけが部屋に響く。僅かに開いた口が間抜けで笑える。寝付きと料理の腕だけはいい兄を横目に、僕は月光に照らされる花を見た。蘇るのは、あの日の出来事。道に迷って泣いていた僕に、彼が笑って言ってくれたあの言葉。



『ゆきお!みろよ、こんなにいっぱい咲いてるぜ!』
『すごい…!きれいだね、兄さん』
『……なんかこれ、ゆきおみたいだな』
『え?』
『ほら、ちっこくてやさしい色だろ。ゆきおの目にそっくりだ!』
『ちっこいは余計だよ……ねえ、兄さん』
『ん?』
『兄さんはこの花、すき?』
『おう!ゆきおはすきか?』



―――うん、すきだよ。あの日と同じ答えを心の中で呟く。好きだよ。優しい色合いが僕みたいだと言った花を、迷いもなく好きだと答えた貴方が。いつも笑顔で僕を励ましてくれる、優しい兄さんが。そんなふうに単純に出来ている僕を、机の上で静かに咲いている花が笑っている気がした。



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花はオオイヌノフグリとか瑠璃茉莉とか、丁字草のイメージ












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