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□ひどいひと
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彼の心に住みたいと思った。そして、それが絶対に無理だということがわかって、どうしようもなく泣きたくなった。





「あ、奥村くんやないの」
「志摩!おお、なんか久しぶりだな!」
「せやねえ、何年振りでっしゃろか」


中級悪魔の討伐任務を終えて、疲れた身体を引きずるように帰り道を歩いていた志摩は、数歩前に青みを帯びた黒髪と揺れる尻尾を見つけて名前を呼んだ。振り返った顔はやっぱり見知ったもので、懐かしいなあと歩みを早めて彼に近づく。本当に、何年振りだろうか。塾生の皆が念願の祓魔師になって学校を卒業して、明陀の復興のため勝呂と子猫丸と共に京都に帰ると別れを告げて、それから会っていないような気がする。先生だった彼の双子の弟や、同じ塾生だった女子二人とはときどき顔を合わせていたのに、どうしてだか意外に仲の良かった燐だけがすっぽりと抜け落ちている。不思議に思ったが、嬉しそうに昔と変わらない弾けるような笑顔の燐につられ、自分の顔にも笑みが浮かぶのがわかった。


「相変わらず頭ピンクなんだな」
「おん。これやったらどこから見ても俺やてわかるやろ?」
「その締まりのねえ顔だけでわかるって」
「ひど!嫌味やなんて言いはるようなったんやね、奥村くん」


ショックやわあ、なんて大袈裟に顔を隠して泣き真似をすれば、燐はそういうところも相変わらずだとひっそりと笑って言う。学生時代ならきっと、彼は大声で笑ったはずなのに。まるで何かの目を憚るようなその笑い方に、志摩は違和感を覚えた。だって、そんな笑い方知らない。燐に似合うのは、八重歯まで見える大輪の笑顔だ。こちらまで笑ってしまうような、ほのかに春や夏の季節を思わせるもののはずだ。そんなの、いつの間に身につけたの。その疑問が口から飛び出す前に、燐はあっと声を上げた。


「そうだ、お前にお別れを言いに来たんだった」
「…お別れ?」


海外にでも配属されるのだろうか。彼の実力は今や聖騎士と並ぶのではないかと噂されるくらいだし、何より夕飯の買い忘れを思い出したような口ぶりにそう思った。だから志摩は「どこ行きはるん?別嬪さんがおったら教えたってや」なんて、へらりと笑って茶化すように言ってみる。寂しいなんて感情は彼の重りになるだけだろうと思い、できるだけ明るく。すると、彼は変な顔で笑った。困ったような、安心したような。


「えっと…どっか違うとこに配属されるわけじゃねえんだ」
「え?ほんならどこに行きはるの?」

「―――俺、明日死ぬんだ」


ぴたり、時間が止まった。優しく吹く風も、のたのたと沈んでいく夕日も、少なくとも志摩の世界の全てが呼吸することを放棄したのだ。彼は、今なんと言ったのか。瞬きをすることも忘れて凝視していると、燐はぽつりぽつりと話しはじめた。彼らしくない小難しい単語を並べ立てた説明は、要約するとこれ以上奥村燐を飼い馴らして祓魔師と関わらせるのは危険だと、上が判断したらしい。反乱を起こすとでも思われたのかな、なんてごまかすように笑う彼には悪かったが、志摩はあまりにも馬鹿げた話に声が出なかった。


「だから、俺は明日死ぬんだ」
「………っ」


彼―――奥村燐を取り巻く環境はいつまで経っても劣悪で、果てのない憎悪や殺意なんかでどろどろと黒く淀んでいた。それは、もがけばもがくほど暗く冷たい場所へ引きずりこむ底無し沼のようだ。だというのに、そこにいる彼はいつだってまっすぐと綺麗に生きていた。歪みのない信念だとか、ほんの僅かに与えられた暖かい言葉や、過去に埋もることのない懐かしい記憶を大切に抱いて。そして、優しさが溶け出たような顔で笑うのだ。何度その笑顔に救われて、支えられてきただろう。志摩は、燐の笑顔がいっとう好きだった。彼の人間性が現れた、優しい笑顔だったから。


「冗談、キツすぎるわ…」
「嘘じゃねえよ。だから俺、今日は皆の顔見て回ったんだぜ」


お前が最後。そう言って彼は笑う。燐は見てくれこそ悪魔だったのだけれど、酷く美しい心を持った人だった。名に相応しい、りんとした精神を持つ人だった。見せつけられる残酷さを優しさで包むような、大切なものをいつまでも胸の奥にしまっておくような人だった。彼を見ている志摩には、どうしても周りの祓魔師達がよっぽど悪魔のように感じられた。あんなにも可愛くて、優しく美しい人を口汚く罵り殺す機会を窺っているのだから仕方のないことかもしれない。そして、その祓魔師を目指す自分が汚いもののようにすら思った。だからこそ、どうせ祓魔師になるなら、燐のために悪魔と戦って燐が歩きやすいように道を作って燐と生きることができる世界を広げようと、誰に言うでもなく決意して今に至るのに。段々といろんな人に受容され、漸く明るい未来が見えるかもしれないと、人知れず喜びを心に秘めていたというのに。あの笑顔を、守れるのだと思ったのに。なのに、騎士團は燐を殺すと言うのか。


「っ奥村先生は、知ってはるん?」
「いや…お前にしか、言ってないよ」
「なんで…!?」


詰めよるように問いただせば、燐は視線を横にずらす。そして、自分を守るためだけに祓魔師になったのに、死ぬなんて聞けばきっと心が折れて悪魔落ちになってしまうと呟いた。ならどうして他の塾生や先生に言わないのかと聞けば、彼は「他の奴らに言ったら絶対怒って騎士團に喧嘩売りそうだから」と言った。自分は怒らないとでも思っているのか。彼を大切に思っているのは、何も自分が名前を思い浮かべた人間達だけではないのに。言いようのない感情が腹の中を渦巻く気持ち悪さに、志摩だけに事実を告げる不可解さに顔を歪めていると、燐は言葉を繋いだ。


「志摩なら、黙って俺を見送ってくれんじゃないかってさ、思ったんだ」
「見送るて…」
「俺、誰かに怒られんのも泣かれるのも嫌で、でも何も言わないで死ぬのも嫌で」
「俺かて、奥村くんが死ぬんは嫌や」
「うん。だから、これはお前と俺だけの秘密」


ごねる子供に言い聞かせるように、彼はそう言って人差し指を唇に当てる。その青い瞳には、もう決意と覚悟しか映っていなかった。揺らいでいるものなど、何もない。それは、志摩が燐を抱きしめても変わらなくて。ああそうかと、唐突に悟る。同じような身長だったのに、彼を見下ろすようになったのはいつだ。この両腕に燐が収まってしまうようになったのは、彼の顔から幼さが抜けきれなくなったのは。耳を塞ぎたくなる罵詈雑言の数々も呪詛をかけんばかりに睨む無数の目も、なんでもないと笑って弾き飛ばしていたというのに、彼が生きるのを諦めてしまったのは一体いつなんだ。


「ごめんな、志摩」
「……謝るんやったら、最初から言わんといてぇな…」
「うん、」
「奥村くんて、酷いお人やったんやね」
「…うん」


自分の身体や声は、震えてはいないだろうか。だって、これで全て最後なのだ。せめて最後くらい、格好良い自分を彼の中に留めておきたい。引き留められないのなら、決心を鈍らせてはいけない。そう思い、志摩はいつものように軽口を叩いた。気を抜くと膝から崩れ落ちてしまいそうだった。


「じゃあ、酷いお人ついでに、言っとくな」
「……え?」


とん、と軽く胸を押されて抱擁が解かれる。慌てて燐と距離を詰めようとすれば、動くなと目で制された。瞬間、志摩の足は固まり身動きが取れなくなってしまう。彼は悪魔でも祓魔師でもなく、魔法使いなのかと思うくらい、それはもう強い効き目があった。そんな姿を満足そうに見て、燐は言った。あの、志摩がいっとう好きな笑顔を浮かべて。


「俺さ、志摩のことがずっと好きなんだ」


さようなら。ひらひら手を振って立ち去る背中を、志摩はただただア然と見送る。気づけば辺りは暗くなっていて、地面に手をついていた。ずっと好き、の言葉が頭の中を繰り返し泳ぐ。はは…と思わず、口からは渇いた笑い声が零れた。まださよならも、返事も言っていないのに。燐は消えてしまった。


「ほんま、酷いお人やわあ…」


空気が震える。ぼやけた視界ではもう、志摩が望んだ世界は見えない。もう、あの笑顔を見ることはないのだ。












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