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□軽薄な夜。
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気がついたのはいつだろうか。月も寝静まった深い夜になると、彼がベッドを抜け出すようになった。昼間の騒がしさは仮面だったのかと思うほど、薄くした気配を保って部屋からいなくなるので、おそらく一週間は知らないで寝ていたはずだ。


「………兄さん、」


呟きは誰に拾われることもなく、夜のしじまに溶けて消えた。二人で暮らす部屋に今は自分しかいないのだから、当たり前なのだけれど。ゆっくりと身体を起こして、枕元に置いていた眼鏡をかける。霞んでいた世界が明確な輪郭を取り戻す。ベッドには、やはり彼はいなかった。温もりすら残っていない。それでも彼が行ける場所なんて限られているから、僕は部屋を出る。気配は屋上へと続いていた。


「……………っ」


ほんの僅かに開いた扉を覗けば、見慣れた背中が空を見上げていた。何をしているの、ほら早く寝るよ、勝手に出ていかないで。そんな、彼にかけるために用意していた言葉は、小さく震えている双肩が目に入ったことで殺されてしまう。


―――泣いているのだろうか。


昔から気丈で強かった彼しか知らない僕は、ただその後ろ姿を見つめることしかできないでいた。物心ついたときからずっと追いかけていた彼の背が、優しくてどこか物悲しさを秘めているのをひしひしと感じる。


「…っ、ごめん……!」


不意に彼から吐き出された言葉を聞いたその瞬間、ふと、大きく見えていた背中が一気に小さくなったようだ。誰に対しての謝罪か、なんて自分には心当たりがありすぎて。息が詰まりそうだった。駆け寄ることもできないでただその光景を見ているだけの僕を置いてきぼりに、彼の謝罪は静謐な闇夜の中にぽろぽろと零れ落ちていく。何度も、何度も。


「ごめんな、さい…!」


あの日、自らを守って死んだ父に。


「っごめんなぁ…」


あの日、心から自分の死を望んだ弟に。


「ごめん、ごめん…!」


あの日、己の本性に怯えて怒った友人達に。


「ごめんなさ…!」


そして、自分が生きていることで傷つき、悲しみ、死んでいく人々に。懺悔を含んだ言葉が、まだまた線が細く未発達な背中が揺れるたびに吐き出される。堪らないと、思った。一人にならないと泣けない彼の強がりが、孤立へと導いてしまった自分の弱さが酷く痛い。今、彼の元へ駆け付けて抱きしめたのなら何かが変わる?いいえ。そんな夢物語、彼を嫌っている神様が用意しているわけがない。第一、彼の死を願ったことのある僕にそんな資格があるはずがなかった。ぐっと唇を噛み締める。


「―――…ごめんね、兄さん」


届くことのない謝罪を口にする。彼を救わない神よ、貴方を信じない僕をどうか許さないで。酷いことを言われて辛いことをされて苦しんでいるたった一人の家族を、こんなにも不安がしんしんと降り積もる夜に置き去りにする、酷く冷たいこの僕を。












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