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□God Love The Irony.
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空を塗り替える夕暮れの色は、人の感性をどこか懐かしい場所へと赴かせる。授業が終わって無人となった一一〇六号教室は、初対面のように少し冷たい表情をしていて、そのくせ暖かい色味を帯びていた。ふと唐突に、幼い頃の出来事が頭を過ぎる。昔、日曜日の朝から主聖堂で行われるミサにどうしても参加したくて、よく駄々をこねては親父を困らせていた気がする。今思えば魔神の落胤である俺が神に祈る神聖なミサに参加出来るわけがないのだが、当時そんな事実を知るはずもない俺が曖昧な理由で納得出来るわけもなく。祓魔師的な意味合いを除いても、親父は賛美歌を聞いた俺になんらかの影響が出てはいけないと思っていたのだろう。けれど、親の心子知らずとは昔の人はうまいことを言ったもので。よく修道院の人達の目を盗んではこっそりと主聖堂の外から中を覗き見ていた。しかし、大人しくじっとしていられない性質が相俟ってか、子供だった俺は静謐な空気や沢山の人が並ぶ様子はあまり好きではなかった。まあ、それは今でも好きではないのだけれど、話が脱線するので知らないふりをする。

朗々とした言葉が続くミサの始めは、手持ちぶさたにぼんやりとしていたように思う。それだけだとなんのために覗いていたんだとも思うだろう。だが俺の目的は、日曜日以外はいつも沈黙を貫いている古めかしいオルガンが優しく奏でる旋律だった。なので、聖歌が歌われるときは目を輝かせていたような記憶がある。その中でも一番好きだったのが、ミサが終わって誰もいなくなった主聖堂で歳老いた夫婦がひっそりと弾くアメイジング・グレイスだった。背筋がまっすぐとしている夫が曲を奏で、小さくて可愛らしい妻がのどを震わせ歌を歌う。二人の息は子供の目から見てもぴたりと合っていて、しわしわの手の平がどうしてあんなにも滑らかに動くのか、少ししわがれた声が何故あんなにも美しく響くのかと不思議で仕方なかった。けれど、老夫婦が奏でるそれは俺と同じ年齢くらいの少年聖歌隊が歌うキリエやグローリア、アレルヤなんかよりもよっぽど耳に馴染んで。気がつけば音程も歌詞も完璧に覚えてしまっていた。


「Amazing grace…」


思わず懐かしさが込み上げてきて、思い出の中に息づく歌詞を久しぶりになぞってみる。変声期を迎えた声は低くなっていたものの綺麗に歌うことが出来た。そのまま一節を口ずさむ。大好きなこの歌を間違いなく覚えられて、いても立ってもいられなくなったある日。得意げに雪男や親父の前で歌ってみせたのも、俺の歌声を褒めてくれた親父の表情がなんとも言えないようなものだったことも、懐かしい思い出だ。


“お前は天才だな、燐!”


笑顔でくしゃくしゃと頭を撫でてくれた親父。彼の目に、悪魔の子供が聖歌を囀る皮肉な光景はどう映っていたのだろうか。今となっては知る由もない思いだ。静かに目を閉じて息を吸う。どうせ誰もいない教室なのだから、歌うのであればもっと堂々とした方が気持ちが良いに決まっている。肺いっぱいに夕日が溶けた空気を溜め、俺はゆっくりと声を吐き出した。



Amazing grace!
how sweet the sound.
That sav'd a wretch like me!
I once was lost,but now am found,
Was blind,but now I see.
'Twas grace that taught my heart to fear,
And grace my fears reliev'd;
How precious did that grace appear,
The hour I first believ'd!
Thro' many dangers,toils and snares,
I have already come;
'Tis grace has brought me safe thus far,
And grace will lead me home.
The Lord has promis'd good to me,
His word my hope secures;
He shield and portion be,
As long as life endures.
Yes,when this flesh and heart shall fail,
And mortal life shall ceace;
I shall possess,within the veil,
A life of joy and peace.
The earth shall soon dissolve like snow,
The sun forbear to shine;
But God,who call'd me here below,
Will be forever mine…




寸分の狂いもなく最後の音を奏で終えると背後から拍手が降ってきた。驚いて振り返ればそこにいたのは同期生の志摩で。出会ったときはぎょっとした明るい髪色も、どこか軽い印象を与える笑顔も、今ではすっかり見慣れたものだった。


「いやあ、奥村くんて聖歌とか知ってはったんやね」
「………いつからいた」
「最初っからもろ聞かさしてもらいました」
「あーもうっ、すげえ恥ずかしい奴じゃん俺!」
「ええ、なんで?えらいお上手でしたやん」


歌声聞いたとき、もしかしたら歌うとるんは妖精さんかもしらへんと思うたよー俺。なんて、ふざけた口調なのに少しだけ真剣な眼差しで言うものだから、怒る前に呆れて、そして一気に照れが全身へと回る。急にかっかと熱を持ちはじめた顔や首筋を手で扇ぎながら、どうしてここにやって来たのかと志摩に尋ねる。彼は答える代わりに、ほぼ指定席と化している後ろの方の机の引き出しから、プリントを一枚取り出してみせた。見覚えのあるそれは、雪男から出された今日の課題だ。


「忘れてたのかよ、だっせぇ」
「そないなこと言うて、奥村くんかて忘れてはるんやない?」
「残念。もうやりましたー」
「え、珍しい。明日は槍でも降るんかな」
「失礼だなお前、虫降らせるぞ」
「ちょ、かいらしい冗談やん!堪忍したって!」
「しかたねえなー…」


酷く焦った表情で謝る志摩を鼻で笑い、やれやれと首を振る。心底安心してほっと息を吐く姿が面白かった。その、オレンジに染まった顔を見ながら、俺はもう一度「Amazing grace…」と口ずさむ。すると彼は少しだけ考え込むそぶりを見せて、ぽつりと言葉を呟く。


「素晴らしき恩寵…やっけ?」
「へえ、仏教なのに知ってるのか」
「ちょっとだけな…なあ、もっかい歌ってくれへん?」
「やだよ」
「そこをなんとか!」


俺の歌声が綺麗だったから聞きたいと頭を下げる志摩に、流石に気恥ずかしいから嫌だとは言えない。それに、今日はなんだか気分が良かった。課題を早くに終わらせたからかもしれない。陰りを見せはじめた夕焼け空を背中に、俺はゆっくりと息を吸い込む。そして、再び声帯を震わせ聖歌を口にした。途中、微かに目を開けて歌を聞く志摩を見ては、笑いが零れそうになるのを必死で抑えた。彼はアメイジング・グレイスの歌詞の意味を知っているのだろうか。まるで俺にぴったりで、それでいて不相応なこの歌の意味を。一番高い音を出しながら、俺は頭の中を空にする。今はただ、子供のように惜しみない拍手をくれる彼のために歌いたかった。






God Love The Irony.
(皮肉好きの神様、)
(貴方を讃える歌を囀るのも)
(今だけは許してください)










次ページに和訳あり。

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