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□たおやかに、しとやかに
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ナツくん。人混みの中から自分の名前が飛び出したような気がして、街路の端を一人で歩いていたナツは首を傾げて立ち止まった。きょろきょろと周囲を見渡してみるけれど、街には仲が良さそうな男女や明るい表情の子供達に、足早に先へ進む人しかいない。可笑しいなあ空耳かなあと思いながら、ナツは止めていた足を再び前に出す。


「待って、ナツくん!」
「………へ?」


今度ははっきりと耳に届いた声にナツは後ろを振り向いた。なんとなく聞いたことはあるけれど、それが誰の声なのかまではわからない。一体誰なんだろう。不思議に思っていたナツの視界に見慣れない金色がちらついた瞬間、きゃあ!といくつもの黄色い悲鳴が沸き上がった。


「よかった、聞こえてないのかと思ったよ」
「あー…えっと、久しぶりだな?」


ふわり。柔らかい笑みを携えた男は緩やかに頷く。甘い表情を乗せている整った顔立ちには、少し茶色がかったくすんだ金髪がよく似合っていた。なるほど、さっきの悲鳴はこのせいかと納得しながらナツは瞬きをする。見覚えのある男だけれど、名前がさっぱり思い出せない。かと言って相手は自分の名前を知っているので、今更どちらさまですか?なんて尋ねるのは、いくら頭のネジが緩めのナツだって失礼なことだとわかる。けれど、このままあやふやに話を続けるなんて高等技術は、ナツは駆使出来ない。どうしようとおろおろしている心を読んだのか、目の前の男はもう一度ふわりと微笑んで言った。


「ヒビキだよ」
「え!」
「僕の名前、思い出してくれた?」
「……悪い、忘れてて」
「ううん。六魔将軍の件以来会ってないから仕方ないさ」


顔は覚えていたのだから気にしていないと優しくフォローしてくれるヒビキに、ナツはほうっと息を吐いた。人の気持ちを汲み取ることに長けていて、見目も大変美しい。彼が女性にモテる理由がなんとなくわかった。しかし、ちらちらと寄せられる無数の視線とは別問題だ。なんだかやけに居心地が悪くてナツが目を斜めに向ければ、それを瞬時に悟ったヒビキが「よかったら、お店に入って話をしないか?」と誘いの言葉を投げかけた。


「あー…俺、今、金持ってない」
「誘ってるんだから、僕が奢るよ」
「ほっ本当か!?」
「うん。ナツくんともっとたくさん話したいしね」


さらりと臆面もなく言われた台詞はまるで女性を口説く常套手段にも似ているのだけれど、ヒビキの笑顔は女性に向けるものよりも格段に甘いもので、彼が本心からそう言っていることが窺える。しかし、ヒビキの名前も覚えていないようなナツが彼の普段の笑顔を知る由もないので、ロキみたいな奴だなあと思いながら頷くだけだ。


「じゃあ、僕がよく行くカフェがあるからそこに行こう」
「おー」


カフェだなんて、やはり顔のいい男は行く場所が違うのだなと感心する。きらきらとした横顔を見つめていると、視線に気づいたヒビキが手をナツに伸ばす。男にしては綺麗な手の平だったが、自分のものよりも大きくて頼れそうなものだ。


「はい、ナツくん」
「……?」


差し出された手の意味がわからなくて、ナツは首を傾げる。その様子を何か微笑ましいものを見たような表情で、ヒビキは「手を繋ごう」と言葉を足した。流石にナツも男同士で何を言っているんだと拒否をしようとした。だが、それを言う前にヒビキは素早い動きでナツの右手を取り、緩やかな足取りで前へと進む。


「おい、手…!」
「嫌かい?」
「嫌じゃねえけど…変だろ?」
「そうかなあ」


ふわふわと、優しくて柔らかな微笑みでヒビキは緩く否定を口にする。そして、当然のように「好きな子と手を繋ぎたいのは、変じゃないよね?」と小さく囁いた。え?とナツが聞き返す間もなく、彼はゆったりとした歩幅を保ちながら前を歩いていて。顔に似合わず強引なのかと、ややア然と手を引かれるままについていく。顔が熱いのはどうしてだろう。


「ねえ、ナツくん」
「なんだ?」
「僕の名前、もう忘れないでね」


甘い笑顔、暖かい手の平、優しい声と溶けた眼差し。柔らかな言葉にナツはただただ黙って頷いた。きっともう、どう頑張ったってヒビキの名前を忘れることなんて出来ない。












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