版権2

□魚に口づける話
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見たこともない青い鱗をした魚が悠々と頭上を泳いでいた。尾びれは長く、大きく左右に揺れている。それをただ見つめていると魚はゆらゆらと弧を描きながら、漆黒の砦の頂の奥へと泳いでいってしまった。ならばここは海の中か、はたまた湖の底か。なんとも厄介なところに来てしまったと、身体を包む液体の感触にため息を吐いた。が、開いた口からは気泡が生まれない。そういえばここは水中で、さっきから呼吸をしているというのに全く息苦しさを感じない。ああ、これは夢なのか。漸く自分がいる場所を悟った勝呂は、魚の後を追うべく前へと足を踏み出した。


(我ながら、けったいな夢見よんな…)


光がない水底だというのに砂粒の模様まではっきりと見える。しかし、振り返っても足跡は残っていなかった。やはり夢の中なのだろう。途中、紫色の狐を必死で追う可憐な花と擦れ違った。狐の澄まし顔がなんとなく癇に障って、その首根っこをむんずと掴み上げる。牙を向かれたが気に止めず、砂の上で(花に使うものではないが、他に表現がなかった)息を切らした花を片手で掬い、狐の背に乗せてやる。


「俺の夢ん中やで…仲良うしぃや」


そう言えば余計なお世話だと言わんばかりに狐は鼻を鳴らし、勝呂の手から身体を捻って逃げ出す。そしてそのままふわりと浮くと足早に駆けていってしまった。その背中でぺこぺこと花弁を揺らす花を振り落とす気配はなかったので、まあよしとするかと再び歩みを進める。なんだか随分と歩いた気がする。だというのに砦との距離は一向に縮まる様子がなく、勝呂は次第に苛立ちを胸に溜めていく。自分の夢の中だというのに、どうして苛々しなければならないのだろうか。腹いせにたまたまあった足元の小石を蹴飛ばせば、ちょうど砂の中から顔を出した蛇に当たった。美しい翡翠色をしたつぶらな瞳と目が合う。


「すまん…当てるつもりはなかったんや」


謝罪を口にすれば、蛇は知っていると言うようにちろりと真っ赤な舌を覗かせ頷く。ここが海なら彼は海蛇なのだろうが、生憎と勝呂にそれを判断出来るだけの材料が揃っていなかったため、蛇とだけ断定しておくことにした。第一海蛇なら身体の模様は黒い縞だろうが、その蛇の模様は青い水玉だった。そして目の回りがパンダのように黒く塗り潰されている。先ほどの紫色の狐や可憐な花然り、やけにポップで可愛らしい蛇だ。しかもこれは自分の夢の産物である。思わず頬が引き攣ってしまい、乾いた笑いが口から零れ落ちた。確か、夢には自分の深層心理や望みが反映されると言われているけれど、まさかこんなファンシーな生き物達と触れ合うことが自分の望みだと言うのか。


「あかん…頭痛なってきた…」


思わず額に手を当てて目を閉じると、耳元でしゅーしゅーと空気が抜けるような音が聞こえた。ぎょっとして横を見れば、水玉の蛇が宙に浮いて勝呂をまっすぐと見つめている。そして視線が合った瞬間、尾の先を揺らめかせて砦の方を指し示す。そして首を傾げ、ぐるりと勝呂の回りを一周する。急かすような行為に唖然としていると、さっさと行けと言わんばかりに頬を打たれた。かなり勢い良く叩かれたのだが痛みは感じられない。流石夢の中である。それでもひりひりと頬が痛んでいる気がして、気休め程度に撫でておく。


「ちょ、わかったて…行くから歯ぁ剥き出すな」


なかなか歩き出さない勝呂に痺れを切らしたのか、大きく口を開けて鋭い歯を見せてきた蛇に慌ててそう言い、砦へと走り出す。蛇が追ってくることはなかったが、歩く気にはなれなかった。砦との距離はまだまだ開いたままで、むしろ更に遠退いたようで焦りが生まれる。ふと、水中なのだから泳げてもいいのではないかと思い、力強く地を蹴って飛んでみた。が、浮力に従うことなく身体は沈むばかりだった。なぜ自分だけが、と思いながらも歩き続ける。すると、爪先に何かが当たった。


「なんや…?」


足元を見下ろすと、そこには真っ赤な子猫と桃色のくらげがいた。またなんとも可愛らしく微妙な組み合わせである。どうやら勝呂が蹴飛ばしたのはくらげのようだった。頭の左側が少し凹んでいたし、何より憤慨したように目の前にぷかぷかと浮いて揺れている。鬱陶しいと手で払おうとすれば、べとりと肩に貼りついてきた。くらげに声帯がなくて本当に良かったと思う。もしもこれで話せるなら煩くて敵わないだろう。困ったように子猫が鳴いた。そしてくらげをたしなめるように宙に浮いて、小さくとも鋭い歯を半透明のゼラチン体に突き刺した。びくり。大きく一度だけくらげは痙攣すると、砂の上に落ちていった。


「にゃー…」
「おん、助かったわ」


頭を撫でてやれば目を細める子猫に礼を言い、勝呂は再び砦を目指して歩き出す。子猫は着いてこなかった。なんとなく寂しい気持ちを抱きながらも、歩き続けて数十分。漸く砦の前にたどり着くことが出来た。歩いているときには気付かなかったがかなり大きい。見上げてもなお上へ上へと伸びている黒い岩に、人知れずため息を吐いた。あの魚は、この頂上にいるはずだ。そうはわかっていても、勝呂にはこの砦を登る術がない。身体は浮かないし、砦の表面はつるつると滑らかで指をかける隙間もない。さてどうしようかと頭を悩ませていると、不意に肩を軽く叩かれた気がして振り返る。


「お前…ついてきたんか」


そこには、蹴飛ばしてしまった桃色のくらげが浮いていた。助けに来てくれたのかと嬉しくなるのも一瞬のことで、すぐにため息をまた生産する。ふわふわと漂うだけの半透明な桃色が頼りになるわけがない。更には勝呂が蹴った跡も子猫につけられた歯形も残っているのだ。打つ手なしといった現状に頭が痛くなる。どうして夢の中でも悩まなければならないんだろうか。答えのない自問を繰り返していると、再び肩を叩かれた。いい加減にしろとくらげを睨む。考えを纏めている最中なのだから邪魔はしないでほしい。そんな願いを込めて睨みを効かせたら、くらげは細い触手を左右に伸ばし、やれやれと言うように左右へ頭を振った。妙に腹立たしく感じてしまう仕草だ。それでも口出しをせずに苛々と行動を見守っていると、何やら砂に文字を書き始めた。


「なんて書きよるんや……ああ?」


“こころにうそは×”


平仮名で綴られた言葉に眉を寄せる。この短い人生で嘘を吐いたことなんて数えるほどもない勝呂には、全く心当たりのないものだった。一体何が言いたいんだとくらげを睨めば、さっきのようにやれやれという動作をして頭の上に乗ってきた。慌てて剥がそうと手を伸ばすが払われてしまう。仕方なくそのままにしておけば、くらげはゆるゆると触手を砦の下に伸ばしていった。それを目で追えば滑らかな表面に僅かに欠けた部分を見つける。ここをどうしろと言うのだろう。我が夢ながら意味がわからない。なんなんや…一体。零れた言葉は独り言として処理しておく。それでも、くらげから返事がないのは承知していることだが、やはり疑問を投げかけてしまう。


「なあ、どないせえっちゅうん?」


頭に乗ったくらげは黙ったままだった。解決法はない。思わず勝呂が舌打ちをすると、くらげはすんなりと頭から離れる。そして、欠けた部分に近寄っていってそこを指す。覗き見ろと言うことかと勝呂はその場にしゃがみ込み、顔をその穿たれた場所に近づけた。瞬間、目の前に広がったのは真っ青な炎で。驚いて身を引いてしまったが、熱さを感じない美しい炎だった。もう一度きちんと見ようとしたが、砦からじわりじわりと水滴が溢れてきてそれは敵わなかった。馬鹿馬鹿しいとは思ったが、勝呂にはその様子が泣いているように見えた。横を漂うくらげを見る。


「なんや、あれ」


“ぼんが、いちばんほしいもの”


砂に書かれたくらげの字に、今度こそ勝呂は本当に気がつく。ああ、そうか。理解してしまえば簡単で、納得は心臓にすとんと落ちてくるようだった。ゆっくりとズボンのポケットを探る。出てきたのは小さな小さな金色の鍵だ。背後を振り向けば、正解だと言うようにくらげがふわりと一回転して、上へと浮かんで消えていった。再び目線を戻し、涙を流す砦の麓の、鍵穴のように欠けた部分にそれを差し込む。かちり。歯車が合った音がして、砦がぶるぶると震え出す。段々と沈んで小さくなるそこからたくさんの気泡が生まれ、夢を包んでいた水が枯れていく。白い泡(あぶく)が晴れ、残ったのは砂の上に立ち尽くす勝呂とぴくりともしないあの魚で。濡れた身体を優しく抱き上げ、その宝石のような青い瞳と目を合わせる。はくはくと開き閉じする口に軽く唇を重ね、勝呂は静かに言葉を紡いだ。


「俺が悪かった……仲直り、しようや」


なあ、奥村。囁きよりも微かなその呼びかけに、腕の中の青い鱗の魚は幸せそうに微笑んだ。











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