版権2

□痣。
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どないしはったん、それ。珍しく険しい顔をして志摩が指差したのは、俺の手首で輪を描く黒ずんだ紫色の痣。ああ、バレちまったか。今更隠す気にもなれなくて、それでも見ていて気持ちのいいもんじゃあないだろうから、腕を背中にやって笑う。険しい顔がもっと怖くなったから、ああ笑顔を作り損なったのだなと俺は唇の端を下げた。


「なあ、誰にやられたん」
「ちょっとぶつけただけだって」
「嘘つきなや…明らかに人為的やないの」


視界に触れないようにと隠した右手は、少しだけ乱暴に掴まれて目の前に曝された。じっと、煮詰めたはちみつ色のふたつの目が、まるで痣から情報を読み取るように手首を睨んでいる。居心地が悪い。いつもへらへらと笑って、たくさん話してくれる志摩が黙ったままだから余計に強く感じる。沈黙がこんなにも痛いものだなんて、きっと正十字学園に通わなければずっと知らなかった。なんだ、ちゃんと学んでいるじゃないか。寮に帰ったら雪男に俺だって学習してるんだぜ、なんて笑って言ってやろう。


「奥村くん、聞いてはる?これ、誰にやられたの」
「…あー、こないだ喧嘩したときにやったのかもな」
「学園内で?そない話は聞いてないけどなあ」
「買い物の途中で、絡まれたんだよ」
「あかんよ、嘘つくならもうちょい筋が通っとるの考えな」


学校は外出禁止やで。そう言って、志摩はへらりと笑う。漸く見れた笑みにほっとしてつられて笑えば、急に無表情になって俺の襟を掴んでそのまま壁に押しつけた。衝撃と同時に痛みが走り、息が詰まる。そう言えば夜中から朝までずっと聖水をかけられてたから、まだ皮膚が赤く爛れているに違いない。仮にも恋人に酷いことするな、こいつ。そう言いかけて、それから志摩は俺が背中に傷を負っていることを知らないと思い出し、慌てて口を噤んだ。それでも苦痛で漏れた呻きは殺しきれず、噛んでしまった口の端から血と一緒に流れ出た。


「ぐっ、う…!」
「っ、まさか背中も怪我したはるん!?」
「ちげえ、よ…びっくりしただけだって」
「やから、なんで嘘つくんっ」


この腕の痣も背中も先生なんやろ。悲鳴じみた声で志摩が叫ぶ。先生?ああ、ネイガウス先生か。あいつは今塾の先生辞めさせられてるしあれから会ってねえよ。そんな、意味のない誤魔化しはのどの奥で縮こまってしまい、言葉になることはなかった。だって、俺は志摩が言う先生が誰を指しているかだなんて、どの人間よりもちゃんと理解しているから。さてどう言い訳をしようか。そんなことを考えていると、少しだけ長く切り揃えられた爪と細っこい指が伸びてきて、垂れっぱなしの俺の血を拭って、舐める。


「なんで、言うてくれんの?」
「……何を?」
「助けてって、先生にやられとるって、なんで言わんの…?」


自分はそんなにも頼りないのかと、震えた声で抱き締められた。泣きそうな顔だった。そんなわけないだろうって首を横に振れば、志摩はまたなんでと繰り返す。後ろに回された両腕は、隠された傷を更に痛めることがないようにと気遣われ、力なく添えられているだけだった。呆れるくらい優しいやつだ。本当は強く抱き締めたいだろう志摩の代わりに、俺はゆっくりと志摩の背中に手を回し、シャツを掴んだ。震えが強くなる。泣いているのだろうか。こんな、俺なんかのために。


「俺、助けてって言うたら助けるよ」
「しま…?」
「怖いて、痛いて言うてくれたら、全力で助けるよ」
「ありがとな、でも大丈夫だから」
「何が大丈夫なん…弟にこない傷つけられて、何が…!」


悔しそうに、悲しそうに志摩は叫んだ。馬鹿だな、お前がそんな顔する必要なんかないのに。慰めるようにピンク色の頭を撫でる。だけど、志摩の震えは止まらなかった。むしろもっと酷くなったかもしれない。ごめんな。俺は静かに謝る。優しい志摩。俺を好きになってくれて、優しく愛してくれる人。俺のために泣いてくれる、大好きな志摩。幸せだと思う。俺はとても幸せだ。だからこそ、雪男の行為を受け止めなければいけない。あいつの仕打ちもまた、確かに愛情なのだから。


「ごめんな、志摩」
「…謝るくらいなら、助けてって言ってくれん?」
「ごめん、ごめんな」


助けてなんて言えない。それは雪男に対する裏切りだ。それに、与えられる数少ない愛を払い除ける勇気なんて俺にはない。だから、俺は謝る。雪男の愛を裏切れなくてごめんなさい。お前の愛を踏みにじってごめんなさい。志摩。いつの間にか、志摩の震えが移ったみたいだ。俺の声はみっともなくぶれてしまっている。ああ、痛いなあ。ひりひりと痛みを訴える背中は、きっと皮膚が修復されているのだろうと思うことにした。志摩。もう一度呼びかける。返事はなかったけど、俺は勝手に喋りだした。


「ごめん。好きだよ、志摩」
「…ごめんはいらんで」
「うん…志摩、大好きだ」
「俺も、大好きやよ…奥村くん」


情けない声がそう言って、今度こそぎゅっと強く抱き締められた。その痛みが少し心地良いと言えば、志摩はなんて言うだろう。ぼんやりと窓の外を見つめる。空は段々と黄色く、そして赤に侵食されているようだ。不意に、いつから歪んでいたの、と聞かれた。だから、最初から歪んでいたんだよと笑って言った。しばらくしたら、どうして歪んでしまったの、と聞かれた。仕方なく、そんなの自分が知りたいと泣いて言った。志摩はずっと悲しそうな顔をして、ただ俺を抱き締めていた。その暴力を甘んじる意味はあるのかと、耳元で小さく呟かれる。理由なんてないよ、ただ愛してるから受け止める。ただそれだけ。そんな簡単な答えを、俺はまだ志摩に返せずにいる。





(それは愛じゃなく、同情なのだと誰かが囁いた)












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