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□ある男の終焉。
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 ある男の終焉。




毒々しいネオンの光も届かないような暗がりの路地裏。踞まる塊は丸く、姿も形もだらけきっている。髭を生やしっぱなしにした男だった。しかもその格好は酷く、よれたTシャツと裾の擦り切れたジーンズだ。誰かが見たならみっともないと眉を顰めるかもしれない。けれども幸か不幸か、男は何も見えない路地裏で一人きりだった。



「…っ、……っ」



男は、走りすぎたのか肺が突っ張ったような呼吸を漏らしている。ひいひいとのどを震わせる姿は、屠殺されかけている豚のようだ。その苦しげな声はいくら押し殺しても静かな夜に浮く。それでも必死に身体を縮める男は、雲の間からちらりと差した月明かりに怯えた表情を映していた。

しばらくそうしていただろうか。すっかり呼吸も落ち着いて、男はなんとか立ち上がった。しかし表情は固いまま。まるで何かに怯えているような、追われているような。



――――ピピピピピ…

「ひ……っ」



ふいに電子音が鳴り響く。アラーム音だ。それは丁度、男の背後から聞こえる。びくり。面白いほど跳び上がった身体は、錆び付いたブリキ人形のように不自然に振り返った。瞬間、静かな絶叫を上げる。



「―――――……!」
「探しましたよー、多々良 裕三さん?」



この場にそぐわない明るいトーンの男の声だった。友人に話しかけるような軽さを含んでいる。しかし、その声の持ち主の顔に笑みが浮かんでいる訳がないことを、男は―――多々良は知っていた。冷や汗が背中を伝う。真っ暗で何も見えない路地だったが故に、気付けなかった人物。



「あ、あああ…許してくれ…ッ!」



額を地面に擦りつけるように多々良は土下座をした。自尊心なんて微塵もない。旋毛から爪先にかけて、身体の全てが恐怖に支配されていた。多々良は自分よりも年若い彼のことはほとんど知らなかったが、裏切り者に容赦がないことだけは知っていた。



「許す許さないはおれが決めることじゃないし」
「っか、家族が…!娘がいるんだ!」
「うん。それで?」
「だから…ッ、み、見逃してくれないか!」



どもりながらも辛うじてそう言えば彼がふっと笑う気配がした。嘲笑でも失笑でもない、ただの笑みだ。多々良は淡い期待を抱く。もしかしたら彼は情に厚いのかもしれないと。しめたとばかりに、更に自分がいなくなれば家族全員が路頭に迷ってしまうとたたみかける。



「それは大変だなあ…」
「そっ、そうだろう!?」



肯定されて激しく首を振って同意する。助かる道があるかもしれない。地獄に垂れ下がってきた一本の蜘蛛の糸を必死でつかみ取ろうと、多々良は急いで笑顔を貼り付ける。

こつこつと靴の音が近づいて、ぴたりと止まった。今まで見えなかった彼の顔が、微かな月明かりに照らされる。同情の笑みが浮かんでいるだろうと予想していたそこは、無表情だった。同情も怒りも哀れみも嘲りも何も存在していなかった。恐怖が心臓を舐め上げる。



(怖い怖い怖い恐いこわい怖い恐い恐い怖い怖いコワイ……!!!)

「じゃああんたは、自分が裏切れば家族が路頭に迷うってわかっていて、裏切ったのか」
「ひい…っ!」
「救いようがない」



吐いて捨てるようにそう言われ、鼻先でにこりと微笑まれる。瞳の奥は酷く冷え切っている。それが助かる余地はないのだと克明に語っていて、多々良は腰から下の力が抜けてしまった。すると、手を伸ばされて脇に抱えていたノートパソコンを奪われる。そこには、多々良が数年の時間をかけて完成させたプログラムが入っている。死に物狂いで組織から持ち出した大切なプログラムが。



「そ…それはおれの……!」
「違う、これは組織のだろ?」



だからこれを持ち出したあんたは立派な犯罪者なわけ。ふらふらと目の前でノートパソコンを揺らされる。少し手を伸ばせば届くのだが、多々良にはもう動く気力も残っていない。組織を裏切った犯罪者の末路は目に見えている。死ぬか実験台か、はたまた生体電機人形として生まれ変わるか。どちらにしても人間のまま生きることはないだろう。抵抗の意思を全く見せなくなった多々良に、彼は最初の明るい声色で話しかける。



「ああ…諦めたんだ?よかった…抵抗されたら片足もいででも連れて来いって言われてたからさ」



無駄な労力を使わずに済むと言われたが、既に口を開く力もない。恐怖も度が過ぎれば麻痺するのだと多々良は身を持って体感していた。一体どこで何を間違えたのか。



「とーと、こいつ運んでくれる?」
「仕方ねえな…」



誰かに声をかけて去っていく背中を眺め茫々と過去を振り返りながら、急に後頭部を襲った鋭い痛みに鈍く呻く。俵のように担がれた気もするが、多々良の意識は深く深く沈んで、もう二度と浮上することはなかった。






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