二次創作
□彼女のブーツ
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ぷちっ
小さな音を立てて、足の拘束が緩むのを感じた。
リディアは音の聞こえた足元を見てそっとドレスを持ち上げると、履いていたブーツの紐が切れた事に気づいた。
「どうしよう…」
勿論、ブーツの紐が切れても、歩くのには少し不自由だが、歩けない事はない。ただ、紐が切れた所は伯爵邸から相当離れた場所なのだ。
…馬車を拾って帰ろうかしら?
それも一つの方法だが、庶民の出のリディアからすれば、こんなことで馬車を拾って屋敷に帰ることは何となく忍びない。
とりあえず、歩けるところまで歩いてみよう、としばらく歩を進めるが、どうも歩きにくい。
何とか歩いて、近くの公園に辿り着いた。ベンチを見つけ、そこに腰掛ける。
リディアはため息をついた。
こんなことなら、ケリーと一緒に出かければよかった。
そう思っても、今更どうしようもない。ケリーにはこれとは別にリディアの用事をお願いしていたからだ。
もともとリディアも出かける予定ではなかったのだが、伯爵邸のホブゴブリンから、彼らの仲間の妖精が困っているからと話を聞き、アシェンバート伯爵夫人であり妖精博士でもあるリディアは、この件をすぐに解決しようと、慌てて伯爵邸を出たのだった。
…自分で直せるかしら?
紐が切れただけなら、そこをとりあえず結び直して履き直せばいい。
ただ、ここはロンドンだ。スコットランドの片田舎ならまだしも、こんな都会の真ん中で、しかも今は伯爵夫人であるリディアが自分のブーツを直そうものなら、世間はどう見るだろう。今までのリディアなら、自分はどう思われてもいいと考えるが、今は伯爵夫人だ。そんなことをしたらエドガーの名に傷がつくかもしれない。自分のためにエドガーの名に傷がつくのはどうしても嫌だった。
やっぱり馬車でも拾おうかしら…。
リディアがそう考え始めた所、目の前に一人の紳士が現れた。
「ミス・レディ、何かお困りですか?」
年はリディアより少し年上だろうか?身なりも言葉使いも丁寧で、何より優しい雰囲気を身にまとった様子がリディアに好印象を与えた。
「あの…」
「怪しい者ではありません。私はこの先に住んでいるアーサーと申します。何かレディがお困りな様子とお見受けしましたので…。もし違っていたなら申し訳ございません」
どうやら彼は全くの親切心でリディアに声をかけてきたようだ。リディアは警戒の色を落とし、少し恥らいながら彼に言った。
「実は、履いていたブーツの紐が切れてしまって、どうしようかと考えていたのです」
リディアは正直に答えた。
「それなら、私が直して差し上げましょう。応急処置でよければいかがですか?」
彼は笑顔で言った。
「…助かります、馬車でも拾って帰ろうかと考えていたんです」
リディアは彼の申し出を受ける事にした。
幸い、リディア達がいる公園は人通りも多く、少し行けばポリスも駐在しており、彼から何か危害が加えられる可能性はなさそうだったからだ。いざとなればリディアが大声を出せば、周りの人々がすぐに集まるだろう。
…確かに、なさそうだったのだけれど…
彼もリディアの返事を聞き、ブーツの紐を直そうとリディアの足元にかしまずこうとしたその瞬間。
シュッ
「うわっ!」
「きゃっ!」
彼の足元にナイフが突き刺さった。
シュッ、シュッ
「わわっ!」
後ろによけ、その弾みで尻餅をついた彼の横に更に二本のナイフが飛んできて地面に突き刺さった。
「ちょっ…」
リディアはナイフが飛んできた方向へ身をよじり、目を向けたその瞬間、
「リディア!」
急にその声の主に力一杯抱きしめられた。
「え、エ」
「大丈夫?リディア、もう安心して、僕が来たから大丈夫。ああ、どこも怪我をしていないかい?こいつに何か変な事をされてないかい?」
そう言ってエドガーはリディアを抱きしめた。
「ちょっと、エドガー、何なのよ!」
リディアは彼の抱擁から何とか抜け出して、エドガーを問い詰めた。
「何って、君を助けに」
「何も助けて貰うような事はないわ。それにエドガーは仕事中だったでしょ?」
「妻の一大事に仕事なんかしていられるか、それこそ愛しい妻を助けるナイトの役目の方が大事だよ」
そう言ってエドガーは呆れているリディアの方に微笑み、その後、その場で尻餅をついていたままの男を一瞥し、彼に畳み掛けるように言い放った。
「悪いけど、僕の妻に手を出すなんて許される事ではないよ。何をしようとしたの」
今にも鋭利な刃物で切りつけようと待ち構えているようだった。
「ちょっと、違うのよエドガー。彼はあたしのブーツの紐が切れちゃったから親切に直そうとしてくれただけよ、何でもないわ」
自分を柔らかく抱きしめつつ、でも相手を冷ややかに見つめる彼をなんとか止めたくて夢中でリディアは言った。
「そ、そ、そうです、僕は彼女を何かしようとは決して」
「僕の妻をなれなれしく彼女なんて言ってもらいたくないね」
エドガーは冷たく言い放った。そして
「レイヴン」
そう言うと後ろに使えていた彼の従者がナイフ持ち直し、彼に近寄った。
「もし、今度、僕の妖精に何かしようとしたらただじゃおかないから」
そう言って、彼を脅した。
レイヴンは何かしようとはせず、ただ、へたりこんでいる彼に近寄っただけだったが、彼は自分が襲われるのかと勘違いをして、慌てて去って行った。
彼が転びつつ慌てて去って行く後姿を、何も手出しが出来ず呆然と見つめていたリディアは事の状態に気がついた。
これって、何なの?
彼が何か悪いことしたの?
そう思えばリディアはエドガーの所業に頭にきた。心配してくれるのはありがたいけど、何も私とちょっと話をしただけで、こうしてナイフで脅かされ、追い払われるなんてひどい。
やりすぎというか、エドガーの過保護すぎに頭にくる。リディアは彼に断然抗議することにした。
「ちょっと、エドガー!」
そう言って彼を睨み付けるが、彼は悪党を追い払ったナイト気取りで(彼こそ悪党なのだが)、リディアを柔らかく見つめた。
「ん?僕に惚れ直した?」
…どこをどう考えたらそういった考えが浮かぶのよっ!
「違うの。話を聞いてっ!私怒っているのよ!」
まさかリディアから怒っているなんて台詞を聞くとは思っていもいなかったエドガーは、心外だな、というように両手を広げた。そして
「リディア、なぜ君が怒っているのか僕にはわからない。感謝されると思ったのだけどね」
そう言って彼女の手を取り、指先に口付けしようとしたので、リディアは慌てて自分の手を引っ込めた。
さすがたらしだわ。隙をぬって私の怒っているのをうやむやにしようとして。そうはいかないんだから!
リディアは改めて背筋をしゃんとして、彼を見上げ、言った。
「なぜ、アーサーさんにあんなひどいことをしたの?彼は何も悪いことしていないじゃない。親切に私を助けてあげようとしてくれたのに」
そう言ったが、それを聞いた彼は片眉をはねあげた。
「ちょっと、リディア、まだわかってないの?」
何だか彼が少し苛立っているように見えた。
でも今回の事はどこをどう見てもエドガーのやりすぎだ。
「わかっているわよ、だからあなたに怒っているじゃない!」
リディアも一歩も引く気はない。そんな彼女の様子を見て、彼の表情も段々曇ってきた。と、いうか、何だか怒っているようにも見える。
でもどうしても非が彼にあると思っているリディアは強気に出て、彼の視線に負けないように睨み付けた。
そんなリディアの強情な所をよく知っているエドガーは、ため息をついて彼女に話し始めた。
「リディアは、彼に何をして貰おうとしたの?」
「私のブーツの紐が切れちゃったから直してくれようとしたのよっ」
ふーん、と彼は言い、また言葉を続けた。
「じゃあ、どうやって直して貰うつもりだったの?」
は?
彼は頭がどうにかしたのだろうか?直すのならブーツを脱いで彼に渡すに決まっているではないか。エドガーは貴族だからそんな事も知らないのかしら?
昔、結婚式をあげた次の日に、彼にブーツを脱がして貰った事をすっかり失念していたリディアはそんな事を思い、彼にしぶしぶ説明した。