□死人にクチナシ
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「ただいま…」

仕事を終え、鍵を開けて家の中に入った。
既に日は暮れているが家の中に明かりはなく、寂しげな闇を作り上げている。
ただいまと声をかけても返事が返ってくることはなく、越前リョーマは溜息を吐いて靴を脱いだ。
玄関先に綺麗に並べられた黒いハイヒールが目につき、リョーマは思わず目を細めて愛おしげにソレを見つめる。
そのハイヒールは愛しい愛しい葵がよく履いていたものだったからだ。
籍を入れ、越前姓を名乗るようになってからも仕事を続けていた葵が通勤時に使用していたものである。
とある会社の事務職についていた葵の制服はシンプルに黒と白でまとめられたものだった。
ふっと零した笑みをそのままに、リョーマは脱いだ靴を揃えて玄関先に並べる。
同棲をしたときから靴は揃えるように葵に再三言われていたために癖になっているのだ。

玄関をあがってからすぐ続く廊下を進み、突き当たりのリビングの戸をあける。
やはりそこも暗闇ができ始めており、リョーマは入って右側にある電気のスイッチを押した。
数回瞬いてから点灯する蛍光灯も、この家に住み始めた当初からのことなのですっかり慣れたものである。
ソファに立て掛けるように鞄を置き、リョーマはリビングと隣接している和室に入った。
その和室に置かれているのは、金と黒で装飾された仏壇だった。

仏壇の前の座布団に座り、リョーマは飾られている遺影を愛おしげに見つめた。
そこに写っているのは、幸せそうに微笑を浮かべているリョーマの妻である葵だった。
ハネムーンで撮影されていた写真はカラーであり、ごく普通の写真立てに飾られたものと間違えそうである。
そう思ってしまうほどにこの写真は新しく、撮影されて間もないものなのだ。

「ただいま、葵。ひとりで寂しかった?」

返事など返ってこないのは当然である。
けれどリョーマはそんなことを意に介さず、相手がそこにいるものとして会話を続ける。

「今日、久しぶりに先輩たちに会ったんだよ。なんか俺のこと心配してた。あの人たちってたまにワケ分かんないよね」

久しぶりに邂逅したのは中学時代、テニス部の先輩だった人物たち。
クスクスと笑いながら話をするリョーマは、それだけ見ていればただ妻に今日の出来事を話す夫のように見えるだろう。
相手が、遺影でなければの話だが。

「……葵」

ふと笑みを失い、リョーマはゆらゆらと揺れる瞳で遺影を見つめる。
遺影の写真を撮ったのは、たった1ヶ月前のことだった。

リョーマが学生時代からの恋人であった葵と籍を入れたのは、今から約2か月前のことだった。
その後リョーマが無理に連休をとって新婚旅行へハワイに渡ったのは1ヶ月ほど前のこと。
1週間の新婚旅行はリョーマにとっても葵にとっても幸せそのもので、これからもこの当たり前の幸せな生活が続くはず、だった。
1週間前までは。
新婚旅行も終えて帰宅した葵とリョーマは翌日からまた仕事に復帰した。
リョーマとしては葵には専業主婦になってもらいたかったのだが、葵が仕事を続けたいと言い張ったため葵はOLのままだった。
そのことをリョーマは今でも後悔している。
もし無理矢理にでも葵の仕事を辞めさせていれば。
もし葵を説得して寿退職させていれば。
あんなことにはならなかったのだ。

1週間前、その日は珍しくバケツをひっくり返したような雨が降っていた。
自宅から職場までそれほど距離はなかったため、葵は徒歩で通勤していた。
いつもどおりに傘をさして職場に向かっていた葵は、雨にハンドルを取られたトラックに追突され絶命した。
即死であったのが不幸中の幸いだろう。
事故現場は悲惨なものであり、死化粧でも誤魔化せなかったからとリョーマも最初は遺体との面会を拒否されていたのだ。
それでも葵に会いたいというリョーマの希望により面会許可は下りたが、最期の葵は二目と見れない姿になっていた。

それからとんとん拍子に話は進み、葬式も終え、自宅に仏壇も設置され、そして今に至る。
リョーマは葵がいたときのように普通に働き、普通に帰宅する。
その日の出来事を話すのが日課になっていたため、リョーマは毎日その日のことを葵に話している。

「…いい加減、返事くらいしてよ。何か怒ってるの?」

つまり、今日会った先輩たちが心配していたというのはそういうことだ。

リョーマは葵を心から愛していた。
婚約指輪も結婚指輪も、購入した新居でさえも葵好みのものにしたほどに。
リョーマにとって葵は何よりも誰よりも大切な存在なのだ。
だから、リョーマは葵が死んだという事実から目をそむけた。
現実から逃げるために今まで通りの生活を続けた。
仏壇と遺影は、生きている葵そのもの。
だから彼女に向かって言葉を投げかける。

「葵、葵…?」

毎日毎日葵の姿を探し、幸せだった頃の記憶に縋りつく。
そうして返事がないことを自覚し、リョーマはまたいつものように涙を流した。

「……帰ってきてよ、葵」

───葵はもう、この世にいない。

毎日毎日現実から目をそむけ。
そして毎日毎日現実に打ちひしがれるのだった。

「葵……っ!」

最後に絞り出した声は震えており、蚊の鳴くようなか細く消え入りそうなものだった。



死人にクチナシ



("もう、リョーマってば!")
("本当に私がいないと何にも出来ないんだから")

((呆れたように、けれど幸せそうに告げる葵の声はもう聞こえない))
((誰か、この現実は嘘だといって))


お題サイト、消えた398様より
 

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